手紙の書きかた指南書というものはむかしからある。どれくらいむかしからかというと、日本のばあい、識字率が上がった江戸時代半ばにはもうあったらしい。
と、これはこの前《東京新聞》で書評した綿抜豊昭『江戸の恋文 言い寄る、口説く、ものにする』(平凡社新書)の受け売りね。江戸時代には標的タイプ別ナンパマニュアルがひとつのジャンルとして存在した、というお話。
電子メールの時代になると、ビジネスメールの書きかたについて教えてくれる本も数多く出版されてきた。2001年には小説家の村上龍さんが『eメールの達人になる』(集英社新書)を刊行して話題になった。
仕事やプライヴェートで、日本語以外の言語の手紙やメールをやり取りする人も多いから、大型書店の語学コーナーに行くと、英語や中国語など各国語の通信マニュアルが存在する。
この20年ほどでだいぶ態度が軟化してきたけど、それでもまだまだフランスという国は、ビジネスやコンテンツにおいて英語を侵入させないほうの文化圏だなと思う。だからフランス語の手紙の書きかたにかんする本もたびたび出てきたし、出るたびに僕も買ってきた。
まずこれは、仕事や私生活でフランス語メールを書く人のための本ではある。〈メールの件名には絶対に冠詞を使用しないこと〉(太字は原文)というのは「件名を冠詞で始めるな」という意味なのだが、ああ僕これけっこうやってたなー。気をつけよう。
というふうに、もちろん役に立つ実用書であり、目次も前半は
・「お祝い」(年始やクリスマス、誕生日など)
・「お誘い」(結婚式、引っ越し祝いからちょっとした飲み会まで)
・「お誘いへの返信」(出欠)
・各種「お礼」
・「要求」(プロバイダ解約、仕事上のアポイントメント)
・「報告」(転居、結婚、合格、お悔やみなど)
と、いわゆるメール文例集らしい内容が並んでいる。
そのあとは「通信販売」「銀行」「観光」とシチュエーション別の目次になるのだが、ここの項目になると急に暗雲が立ちこめる。なにしろこうだ。
通信販売
・希望した商品と違います!
・強制配送の通知
・注文した商品が届きません
・引き落とされた金額が間違っています
・返品を希望します
銀行
・経費に異議あり
・二重引き落としに講義します
・明細書の内容に異議申し立て
・ATMにクレジットカードが飲み込まれた!
・クレジットカードの利用差止め
・口座欠損の承認依頼
観光
・観光スポットを教えてください
・ホテルを予約したい
・レンタカーを予約したい
・旅行の予約確認がとれない!
・予約日程を変更したい
・窃盗被害に対応して!(ホテルの部屋で)
・諸費用の返金をお願いします(電車・飛行機の遅延トラブル)
僕が太字にした部分(通販の全部、銀行のほぼ全部、観光の半分弱)がクレームだ。大丈夫かフランス?
そりゃ確かに通販や銀行関係でメールを使うときって、大なり小なりトラブルがあったときとはいえ、不穏な目次ではある。
(ちなみに強制配送とは、注文してないものが送りつけられてきて、お金を請求されるトラブル。太字でない部分の口座欠損とは、口座名義人の都合で引き出し・引き落とし額が残額を上回り、赤字になってしまうこと)
「銀行」のところを読むとこう書いてある(引用者の責任で改行を加えた)。
〈フランスの銀行はあまり優秀とは言えません。上客(もとい「大きな魚」)にはもちろん、対応も懇切丁寧です。ですが他の客、つまり私やあなたたち小者(もとい「雑魚」)は大抵無視され、最悪の場合、見下されます。
私たちを客として受け入れていることを、恩着せがましく感じさせる悪い癖を、銀行は持っています。そのため何かとミスが多く、そこかしこからあなたの銀行口座のお金をくすねようとすることも!
十分に警戒して口座明細の「あら探し」を慎重に行い、ちょっとしたミスでも銀行をメールの嵐で責め立てましょう。
リアルすぎる。
フランスを知らない人は、著者がウケ狙いで大袈裟に書いていると思うかもしれない。先進国でそんなことがあるなんて、と。
フランスに住んだり、少し長く滞在したりした人なら、銀行や駅やカード会社や保険会社やホテルで、ミスなのかわざとなのかはともかく、いろんな手口で二重取りされそうになったことが一度ならずあるだろう。
日本は顧客を守っている(ふりをする)のがうまい国なので、よその国に行くと顧客が守られていない実情が露骨にあらわれていることに感銘を受ける。
とくにフランスは「報告・連絡・相談」を重視しない傾向があり、これ自体はむしろフランスの美点なのだが、その美点の副作用でいろんなことが起こる。先進国とか関係ない。
じっさい、ルロワさんの本の「サービスの質に関するトラブル対応表現」というページには、つぎのような表現が並んでいて壮観だ。
〈予定と違い、海向きではなくゴミ箱向きの部屋をあてがわれました〉
〈掃除、とくにトイレ・水回りがされていませんでした〉
〈シーツとタオル類が、前の借り手の出発から洗われていませんでした〉
〈冷暖房が機能していませんでした〉
〈プールが修繕中で、利用できませんでした〉
〈予約したシングルルームを他の観光客と共用せねばなりませんでした〉
〈ホテルが建設中でした〉
あるよなー、あるある。むかしフロントで鍵を貰って部屋のドアをあけたら若い女性客がいて着替え中だったという、なんだかむかしのコメディ映画かライトノベルみたいなことがあった。フロントに戻って事態を報告したら、叮嚀に詫びられてべつの部屋をあてがわれたが、そこはシャワーが掃除してなくて髪の毛だらけでお湯も出ず、窓ガラスが割れてて雨が降り込んでいた。
さすがに予約したホテルが建設中だった経験は僕にはないけど、だれかの実話であることはたしかだろうなー。
それでもフランスという国への憧れを持ち、フランスを訪れたいあなたには、このいろいろリアルすぎる本の「観光」の章のイントロをご紹介しよう(引用者の責任で改行を加えた)。
〈完璧な観光客とは第一に、旅先の観光協会で臆せず情報を聞き出し、第二にホテル、レンタカー、クルージングだろうと躊躇せず華麗に予約の手順を踏み、予約完了までの確かなフォローアップを怠らないことです。
第三には、やむを得ないキャンセル発生時のためのメール作成に専念し、宿泊先での荷物盗難や紛失、出発前に希望したサービスと一致しないような事態を想定したクレームのメールという厄介に立ち向かいつつ、見事に解決できる人物をいいます。
そうですとも! 日本から予約したはずの四つ星の海の見える部屋が、単なる廃屋に様変わりしてしまう事態だってありえるのですから〉
2007年といえばWindows Vistaがリリースされた年だが、パリから予約した田舎の宿泊施設の「WiFiつき」が、じっさいには
「パソコン? んー、使ってないからなー。あ、こっちこっち」
と農具がしまわれてる物置に通されて、埃かぶったパソコンを立ち上げたら、ぼやけた青い画面からWindows 98の起動音が聞こえたときのことを思い出すなあ。
あ、「まだまだ甘い。インドはそんなもんじゃない」とか「お前はまだカンザス州の怖さを知らない」とかそういう自慢話は要らないからね。
(千野帽子)