最近のプロ野球では活躍している選手に対して、「メジャーに行ったらどうなるだろう」という期待をファンやメディアは抱く。このような思いをファンたちが抱くようになったのも野茂、イチローをはじめとした先人の日本人メジャーリーガーの活躍があったからこそだ。

現在ほど日本人野手のメジャー挑戦が当たり前ではなかった2002年に海を渡り、チャンピオンリングも2個獲得した田口壮氏に今回はお話を聞いてきました!

【技術面での戸惑い】


田口氏は日本時代、オリックスで10シーズンを過ごした後、2002年にセントルイス・カージナルスと契約。しかし1年目は開幕メジャー入りが叶わず、マイナーでシーズンを迎えた。アメリカに渡り、こんな技術面での戸惑いがあったと語る。
「やはりボールが違うので投球も変わってきます。とにかく打球が飛びませんでした。ゴロになってしまい、どう打っていいか分からない状態でした。その後、バットの出し方やボールの見方など、打撃に関するすべてを日本時代と変えていったら結果が出るようになりましたね」
監督が評価したのは「歌」? 田口壮氏が語ったメジャーの裏側

【マイナーの厳しさ】


しかし技術面以外にも、様々な困難がマイナーリーグでは降りかかる。それらは当時の田口氏のブログに詳しく書かれているのだが、食事が紙袋1つ渡されるだけだったり、スパイクのサイズが大きくブカブカだったり(ティッシュを詰めてプレーしたという)。
そして田口氏自身も「よく分からない」と語る、不可解な理由での2A降格などだ。
田口氏がこのような厳しい環境でも腐らず、プレーができたモチベーションはなんだったのだろうか。
「それは周囲の人の支えがあったからですね。当時の代理人は、僕の調子が良い時期に合わせてマイナーまでGMを連れてきたこともありました。また、2年目でマイナーに落ちたときは、GMが僕に『頑張れよ』と一言くれたんです。自分をしっかり見てくれている人がいると思って頑張れました」

ところで日本時代の田口氏には繊細なイメージがあった。
しかしアメリカ、特にマイナーリーグの大らかな環境に揉まれて性格にも変化があったという。「アメリカ行ったら細かいことなんて気にしていられないですよ(笑)。良い意味で良い加減になりました」

【「日記」を始めた意外な理由】


当時の田口氏はHPでほぼ毎日、日記を更新し、マイナーで起きた出来事などを面白おかしく紹介していた。これらの日記の内容は「何苦楚日記」、「タグバナ。」として書籍化されている。大人気の日記だったが、始めるに至った経緯は意外なものだった。
「元々は新聞記者に対して送るメールだったんです。FA宣言をしたときに毎日記者の方たちが家に来てたんですが、アメリカの自主トレにもついていくと言うので、さすがにそれはと思って(笑)。
毎日メールで近況報告するので勘弁してくださいと言ったのがきっかけです。
ただ起きたことを書いても面白くないので、毎回最後に小話を付けて送っていたらそれが好評で。記者のみなさんから『面白いから続けて』と言われ、ネットでの日記も始めるようになったんです。」
監督が評価したのは「歌」? 田口壮氏が語ったメジャーの裏側
書籍化されている田口氏の「日記」

書籍化されているブログの内容を見ると、プロ野球選手が書いたとは思えないほど面白い内容ばかり。個人的に印象に残っているのがシーズン中に料理をするというもの。手が大事な野球選手なのにシーズン中に包丁を使うのか? 
そのことを田口氏に尋ねると「まず包丁が手に当たらないように使ってますから」とのこと! 田口氏の器用さがうかがえる回答だ。引退した現在も料理好きは変わらず、料理番組や本を見てこのレシピを試そうとしたり、妻にも触らせないというマイ中華鍋やフライパン、包丁も持っていたりするそう。


【監督が評価したのは「歌」?】


さてこのブログにも度々登場しているのが、カージナルス時代に監督だったトニー・ラルーサ。メジャーでも屈指の名将として知られ、田口氏は試合中、ずっとラルーサのすぐ後ろで采配や野球観を吸収していたという。そしてラルーサも「ソウは素晴らしい選手だった」と語るようにお互いの信頼関係は今でも厚い。

しかしラルーサは「右打者だから」という不可解な理由で、2年目の田口氏を開幕直前にマイナーに落したりと当初の関係は必ずしも良好ではなかった。いつから現在のような信頼関係になったのだろう。お聞きすると、ある飛行機内の出来事がきっかけだった。
「先日、来日していたトニーと食事したときもそんな話になったんですが、僕のことをトニーは誤解していたんですよ。
物静かでエネルギーがない人物だと思っていたんですが、移動の機内で松山千春さんの『長い夜』を僕が熱唱しているのを見て、印象が変わったそうです。そこからお互いの誤解が解け始めました」
後にラルーサが「あれが決め手だった」と語ったように、この熱唱を見て翌年(注:田口氏にとっては米3年目のシーズン)の1軍メンバーに田口氏を入れようと決めたらしい。そんなところまでメジャーの監督が見ているというのは驚きだ。

【ポストシーズンでの活躍】


このような一件もあり、監督や周囲の信頼を勝ち取った田口氏は3年目以降、メジャーの舞台で出番を増やしていく。2007年まで過ごしたカージナルス時代でもっとも印象的だったのが、2006年のポストシーズンでの活躍。広くなった本拠地での自身初のHRが飛び出すなど、自身でも「神がかっていた」と語る大活躍を見せた。
ディビジョンシーズンとリーグ優勝決定シリーズを4打数4安打(2HR)で終え、その後のワールドシリーズ(以下WS)でも流れを決定づける代打バントを見せた。


このときのバントは野球人生の中でもっとも緊張したと語る。
「WSで代打バントするほど辛いものはないですよ。100%成功するだろうという目でみんな見ていますし。ベンチ裏で『出番が来る』と感じたので、監督の後ろに行ったら『行くぞ、分かってるだろうな』と言われました。そのときに『分かってますよ、バントでしょ』と返して打席に向かったのを覚えています」
この言葉通り、田口氏は自分の出番が来ることが分かっていたという。これはいつもラルーサの後ろで考えを吸収していたから可能だったこと。もしそれをしていなければ、事前に心の準備もできず、あのバントは決まってなかっただろうと田口氏は振り返る。
監督が評価したのは「歌」? 田口壮氏が語ったメジャーの裏側

【日本よりもアメリカの成績が良かった理由】


田口氏はアメリカでは2009年までプレーし、カージナルス→フィリーズ→カブスの3球団に在籍した。アメリカでの通算成績を見ると、打率や長打率において日本時代を上回っているし、得点圏打率も.331と高かった。日本時代を上回る成績を残せたのは「渡米後は年を重ねていたこともあり、どう球を絞っていくかなど考えが整理されていたから」と語る。また、メジャーで生き残るためには勝負強くなければならないと考え、チームの主砲アルバート・プホルスらにチャンスでの心構えを聞いていたのだという。

【十人十色? 各球団のファンたち】


最後はメジャーのファンについてお聞きした。田口氏によると、ファンの質が各球団でまったく異なるらしい。
「例えばフィリーズのファンは厳しかったですね~。個々人で話をすると良い人なんですが、集団意識が働いたときのアグレッシブさが凄いんです。どうしてそうなるんやと(笑)」
しかし、本人は守備についている時に聞こえるファンからの声を楽しんでいたと語る。「意外とファンの声というのは選手に聞こえるものですよ。日本時代も自分はファンの方と楽しみながら守っている感覚でした。あーこんなこと思っとるんやと(笑)」と田口氏。

球団によってまったく異なるというファンの様子。ぜひみなさんも一度、メジャー観戦して現地の雰囲気を味わってみてはいかが?
(さのゆう90)