
劇文学と「語り物」。
能はカウンセリング、狂言はショートコント
『松風』は、「夢幻能」というポエムっぽい名前の分野に属する。

夢幻能のパターンは、ワキ(いわば視点人物、『松風』では旅の僧)が地理上の特定の場所(ここでは須磨)に通りかかると、シテ(主役。幽霊や神、なにかの「精」など。ここでは在原行平に愛されたふたりの女の霊)があらわれて、対話と舞(ダンス)ののちに姿を消す。ワキの見た幻覚のようにも思われる。
対話といっても、ワキはどちらかというと聞き役で、シテが過去(霊のばあい、生前)を回想して物語る。けっこう無念の思いを抱えていることもある。
言ってみれば観客は、ワキが幽霊をカウンセリングしているのを見ることになるわけだ。
いっぽう『卒塔婆小町』と『邯鄲』は、登場人物間の動的な絡みが売りの「現在能」。

『卒塔婆小町』では、高野山の僧が老残の小野小町に会う。
かつては絶世の美女だったが、こんな身の上に……と嘆いた挙句、狂乱状態に。深草少将が憑霊したのだ。
というのだが、現代人から見ると、女の人が「バブルのころはよかったよねー」と持て囃された華やかな過去を懐かしみ、かつての「アッシー君」を思い出して、
「あの人はこんなこともしてくれた、あんなこともしてくれた」
と悔恨のあまりおかしくなっているように見える。
『邯鄲』は唐の沈既済(しんきせい)の伝奇小説『枕中記』(8世紀後半)にある「一炊の夢」(趙の廬生が貧しい境涯から波乱万丈の人生を送り、惜しまれつつ死ぬが、それはすべて一瞬のあいだに見た夢だった、という夢オチの古典)の劇化。

いっぽう狂言は歌やダンスやアクションを汲みこんだ、体を張ったショートコントという趣き。
『金津』と『月見座頭』とは、いまだったら障碍者や地方在住者を笑いのネタにするのは不謹慎だ!と言われそうな演目だ。『木六駄』は、飲んだらダメな人の失敗談。
岡田利規訳の『月見座頭』の座頭は、河島英五>「酒と泪と男と女」の替歌を歌ってた。

岡田訳は井上ひさしがてんぷくトリオ(三波伸介・戸塚睦夫・伊東四朗)のために書いたコント(『笑劇全集 完全版』で読める)を思わせるところがある。

とにかく気の毒な説経節
本巻は劇文学の巻だけど、戯曲形式で訳してあるのは上記岡田訳「能・狂言」だけだ。
説経節は語り物」だし、浄瑠璃も「語り物」をルーツのひとつとしているので、以下の作品は小説のような「地の文+会話」で訳されている。
説経節は室町時代から江戸時代初期(17世紀)まで栄えたパフォーマンスアートで、日本仏教のメンタリティがつまった芸能であり、教えのありがたみを伝えようとするあまり、主人公たちをひたすら可哀想な目に遭わせるのが特徴。
森鴎外の小説化で有名な「山椒大夫」に見られるように、主人公たちは奴隷に売られたり、賊に攫われたりするのだが、通奏低音のように引き延ばされるのは、親子・兄弟・夫婦・恋人どうしが離れ離れになってしまう、という状況である。

人口の大半が土地と耕作に縛りつけられていた農耕社会では、家族と離れ離れになることがそのまま「望ましからぬこと」として捉えられていたのだなあ。
社会状況が変わっても、このメンタリティがアップデートされないまま文化として残ってしまった結果、DVや児童虐待の温床となり、政府も介護や育児の負担を家族に丸投げする現状がある、と感じちゃいました。

伊藤比呂美はすでに『新訳 説経節』で3篇を現代語訳している。
今回新たに訳した「かるかや」では、出家すると言って、懐妊中の妻を置いて家出してしまった父(出家も家出も字は同じだな……)を慕って、息子が追っていくが、なにしろ親子はお互いの顔を知らない。もう1980年代の大映ドラマか2000年代の東海テレビ昼ドラみたいにえぐい味つけで「お気の毒」の椀飯振舞。
この濃さ、泥臭さが、日本のエンタテインメントのベースにはある。『君の名は。』でも『聲の形』でも『この世界の片隅に』でもいいが、心の綺麗な人がひどい目に遭う話は日本人を動かしてるじゃないか。
作中の「たらん和尚」の名言をここに引いておこう。
〈母に教えてやろう。この子の泣くのは夜泣きでない。お経を読んでいるのだ〉
人気作家の新作中篇小説としての浄瑠璃現代語訳
近松門左衛門の「世話物」浄瑠璃(=現代劇)は、スキャンダラスな事件の再現VTRみたいなものだ。
角田光代による小説化も好評だった『曾根崎心中』は、今回はいとうせいこう訳。
大坂でじっさいに起こった心中事件、堂島新地の女郎はつ(21)と醤油屋の手代徳兵衛(25)の心中事件を、事件からわずか数週間で劇化・上演したもので、ワイドショウ的な興味があった。

『女殺油地獄』(桜庭一樹訳)の主人公・与兵衛の借金が期限を過ぎると5倍になる超ブラックなシステム、どっかで見たと思ったら、こないだ『警察24時』で逮捕されてた四国の不良グループの闇金だ。
主婦が1万円借りたら諸経費引かれて4,000円渡され、なぜか返済額が3万円になってたやつ。

与兵衛は親を騙して多額の借金をするわ、返済を迫られると相手を衝動的に殺してしまうわ、被害者の法事に平然と現れるわ、そのくせロクに隠蔽工作をしないのであっさり犯行がばれてしまうわ、いちいちリアルな犯罪者だ。
ところで訳者あとがきによると、桜庭一樹さんは、映画監督サム・メンデスの「リア王=認知症初期症状」説を受けて、だったら
〈与兵衛はある種の発達障害らしきものを抱えていまいか?〉
と思ったという。
〈与兵衛には話し相手の建前も、サービスも、物の譬えも理解できない。この人間が建前重視の家族と暮らすのは、どちらにとっても難儀なことだったのではないか。そう解釈すると、二〇一〇年代の再演にふさわしい現代性も感じられる〉
これは盲点を衝かれる「読み」だった。
なるほど、与兵衛が手違いから高槻家家中・小栗八弥に泥の塊をぶつけてしまったとき、八弥の徒士頭・山本森右衛門(与兵衛の伯父)が「斬る」と詰め寄りつつ与兵衛に「逃げろ」と目配せしたのは、与兵衛にはまったく伝わらなかった。
母の後添い・河内屋徳兵衛が娘(与兵衛の父親違いの妹)お勝(かち)に婿を取って店を継がせようとしたのも、頼りないどら息子の与兵衛がそれに発奮して心を入れ替えてくれることを期待してのことだったが、それも与兵衛は気づかない。
こういう腹芸が伝わらないあたりは、言われてみれば「非定型」の可能性を感じさせる。
というか、僕だってこういうのは伝わらないほうだ。とくに徳兵衛のはぜったい通じない(アクション映画ファンなので森右衛門のはわかる)。
僕もときどき、自分がどっちかというと与兵衛寄りなんじゃないかと思うことがある。
そして目配せとか、意図と逆のことを表明して相手を動かそうとする戦略が、「人情の機微」とか読むべき「空気」とされるなんて、江戸時代の大坂もだいがいな「察してちゃん社会」だと思った。そりゃ生きづらいわ。
この解釈に合わせて、桜庭訳の与兵衛は独特の「演出」が加えられている。最後まで与兵衛を庇う妹お勝が、ライトノベル的な「妹」キャラに訳してあったのも含め、おもしろく読めました。
人気作家の新作中篇小説としての浄瑠璃現代語訳
『女殺油地獄』「下の巻」冒頭「豊島〔てしま〕屋の場」にこういう一節が出てきた。
〈豊島屋の内から「オヤ誰ぞおるのか」とお吉が聞く。与兵衛はあわて、とっさに「にゃー……」とへたな猫の鳴き真似をした。綿屋小兵衛も「にゃあ」と続ける。内からお吉の「なんじゃ猫かいな」という声がする〉
そんなむかしからあったのか、この「なんだ猫か……」てやつ。と思ったが、これは訳者が加えたもののようだ。
こんな感じで訳者の創意を楽しめるのは、並木宗輔らの「時代物」浄瑠璃『菅原伝授手習鑑』の、現代語を駆使した三浦しをん訳も同じ。

「時代物」は歴史上の事件をあつかうが、時代考証なんかないので、平安時代に寺子屋が出てくるし、『義経千本桜』の義経や弁慶の造形にも、江戸時代の都会人のメンタリティが活かされている。

『千本桜』のいしいしんじ訳、『仮名手本忠臣蔵』の松井今朝子訳は、タイトに締まった現代語で、舞台のスピーディーな展開を想像させる。
僕は、人形浄瑠璃の歌舞伎化は実写化、歌舞伎の人形浄瑠璃化はアニメ化みたいなものか? とか考えるくらい浄瑠璃・歌舞伎に縁遠い生活を送っている。京都南座の近所に11年住んで毎週のようにその前を歩いてたのに一度も観に行ってない。勿体ないことをした。
それくらい縁遠いので、『忠臣蔵』にも、どうしても討ち入りというカタルシスのイメージを漠然と持っていた。松井訳を読むと、この劇のなかで、家族ドラマとラブロマンスがかなりの割合を占めていることがよくわかった。NHK土曜時代劇『忠臣蔵の恋』は、案外原作に忠実なのかも。

浄瑠璃の現代語訳は各篇が、人気作家である訳者たちの新作中篇小説(あるいは短めの長篇小説)くらいの分量がある。各作家のファンにはお得な1冊だと思う。
今回の収録作はこちら。
観阿弥(1333-1385)+世阿弥(1363?-1443)『松風』、観阿弥『卒塔婆小町』、作者不詳『邯鄲』、狂言『金津』『木六駄』『月見座頭』(岡田利規訳)
説経節「かるかや」(底本1631。伊藤比呂美訳)
近松門左衛門『曾根崎心中』(1703。
並木宗輔+竹田出雲+三好松洛『菅原伝授手習鑑』(1746。三浦しをん訳)『義経千本桜』(1747。いしいしんじ訳)『仮名手本忠臣蔵』(1748。松井今朝子訳)
次回は第23回(第2期第11回)配本、第07巻『枕草子 方丈記 徒然草』で会いましょう。

(千野帽子)