そんな野球ファン同士の飲み会鉄板ネタ。これが阪神ファンならバースだろうし、西武ファンならデストラーデやカブレラ、巨人ファンならクロマティとか数字関係なく"心のベスト10"第1位はセペダとなる。
そして、横浜ファンならロバート・ローズの名前を挙げるファンも多いと思う。90年代に“マシンガン打線”の中核を担った驚異のクラッチヒッター。
当時の野球雑誌等を見ると、日本語も覚えようとしないプライドの高い完璧主義者という記述が目立つが、すべてはグラウンド上の結果で証明してみせるその姿勢は、ある意味プロフェッショナルの鏡と言えるだろう。
ちなみにほとんど飛行機恐怖症の自分としては、ローズが大の飛行機嫌いだったというエピソードに妙な親近感を覚えてしまう。
98年の優勝にも貢献したロバート・ローズ
エンゼルスに所属していたアメリカ時代の92年、バスの事故で頭と足首に怪我をするアクシデントに見舞われ、球団側から調整も兼ねたマイナー降格を告げられると、怒ったローズは移籍を希望。
その隙を付いてスカウティングした横浜の渉外担当、故・牛込惟浩氏は「大人になりきっていない印象もありましたが、奥さんがしっかり者だったので日本でも大丈夫」だと思ったという。
67年3月生まれのローズは当時まだ25歳。助っ人としては小柄の二塁手。見た目も気弱そうな大学生風でたったの年俸35万ドル。今となっては信じられない話だが、同年に入団した筋肉スラッガー「グレン・ブラッグスのおまけ」とまで揶揄されての日本生活のスタートだった。
ちょうど93年に「横浜大洋ホエールズ」から「横浜ベイスターズ」へとチーム名を変更。新しく生まれ変わったチームでローズは初年度から130試合フル出場すると、いきなり94打点で広澤克実と並び打点王を獲得。打率.325はリーグ2位で二塁手ベストナインにも輝いた。
そこからは毎年のように打率3割、20本塁打、95打点前後の好成績を残し続け、結果的に背番号23はベイスターズの象徴として90年代のチームを牽引することになる。98年には“マシンガン打線”の4番打者としてチーム38年ぶりのリーグ優勝と日本一に貢献。権藤博監督との相性も良く、ここからキャリアの絶頂期を迎える。
大爆発した1999年
翌99年の大爆発は今でも語り草だ。横浜が史上最高のチーム打率.294(投手を除くと.303)を記録したこの年、32歳のローズは打点マシーンと化して序盤から打ちまくる。
6月8日には「いい時期に自分の判断でやめたい」と引退宣言。助っ人選手がリストラされるのを間近で見てきた経験から、プライドの高い男は退団の時期を自分でコントロールしたいと思ったという。いわゆるひとつの最近の球界では死語になりつつある引き際の美学だ。
6月30日には広島戦で自身3度目となるサイクルヒット達成。ちなみにこの試合の横浜は1イニング12得点のチーム新記録で、20対4と爆勝している。7月22日のヤクルト戦では10打点の大活躍(セ・リーグタイ記録)、オールスター第2戦でも6打点を挙げMVPに輝いた。
結果的に打率.369、37本、153点、192安打、OPS.1.093という凄まじい成績で首位打者と打点王を獲得。135試合制の当時、192安打は50年の阪神・藤村富美男を抜くセ記録、打率.369はロッテ時代の落合博満が記録した.367を抜く右打者歴代1位。
ローズは引退を公表したのち、ホームランを打つと「今日が最後かもしれないから」と通訳に頼んで、バットのグリップに日付と相手投手の名を書かせて違うバットを使うことを繰り返したが、キャリアハイの37発を記録したため、結果的に多くのバットが手元に溜まってしまったという逸話が残っている。
33歳で引退、そして復活?
最後はもう一度優勝を……と現役続行した2000年もリーグ最多の168安打、同2位の打率.332をマークしながら、惜しまれつつも33歳の若さで引退。
ほとんど誰にも期待されずに日本へやって来た無名の選手は、年俸3億円越えのジャパニーズドリームを実現させ、2000打数以上の通算打率.325はバース(阪神)に次いで歴代外国人選手2位、通算安打1275安打は9位、808打点は8位という堂々たる成績を残した。
ちなみに外国人選手の通算打率ランキングには3位クロマティ.321、4位レロン・リー.320、5位ブーマー.317と80年代の伝説的スラッガーたちの名前が並んでいる。
まさにローズはメジャーの球団拡張で来日選手のレベルが落ちたと囁かれた時代に意地を見せた、90年代セ界最強助っ人と言えるだろう。
02年オフにロッテと契約して春季キャンプ参加するも、2月19日に「野球への情熱がなくなった」と突然退団。最後まで孤高の男を貫いたが、2012年の横浜スタジアム試合前セレモニーとしてDeNAのユニフォームを着た佐々木主浩vsローズの夢の対戦が実現。
相手チーム中日の権藤投手コーチ、捕手を務めた谷繁元信と98年日本一の立役者が集結する。そこには現役時代とはまた違う、柔らかい笑みを浮かべたローズの姿があった。
(死亡遊戯)
(参考資料)
『日本プロ野球偉人伝1997-99』(ベースボール・マガジン社)
『週刊プロ野球セ・パ誕生60年 1999年』(ベースボール・マガジン社)
『週刊プロ野球セ・パ誕生60年 1993年』(ベースボール・マガジン社)