ブーム再燃中のプロレス。
エンターテインメントとして洗練されて行く中、昔のプロレスが持っていた「見世物小屋」的な猥雑さはもはや絶滅寸前だろうか。


昭和のプロレスの魅力のひとつに、プロレスラーが持つ“怪物性”があった。ひと目でわかる異形の体躯。絶対に敵わないと恐怖を覚えるほどの凄み。
それをもっとも体現していたのが223cm、230kgオーバーという規格外の大巨人ではないか?

「人間山脈」
「世界8番目の不思議」
「ひとり民族大移動」
「ひとりというにはデカすぎる!ふたりといったら計算が合わない!」


そう、アンドレ・ザ・ジャイアントのことである。

あの巨体で運動神経抜群、手先も器用!


1946年5月19日、フランスのグルノーブル出身。
子どものころから運動神経抜群で、学生時代にはサッカーを始め、ボクシングやレスリングに夢中。100mを11秒台で走り、水泳も得意だったと本人は語っている。
野球のグローブのような巨大な手のひらなのに、器用で手品も得意だったとか。

それゆえ、圧倒的フィジカルを持ちながらもパワー一辺倒ではなく、レスリング技術やインサイドワークにも長けた試合巧者だった。

人里離れたフランスの山奥で木こりをしていたところを“発見された”エピソードが有名だが、これは梶原一騎原作の『プロレススーパースター列伝』が流布したフィクション。
実際は、運送会社に勤めていたところをスカウトされたという。

しかし、雪男などと並ぶUMA的存在になぞらえられても違和感がないのが、アンドレの凄いところである。

「デカいもの=アンドレ」ファッションアイコンにもなった


アンドレが巨人キャラの代名詞的存在となっているのはご存知のとおり。

『1・2の三四郎』『グラップラー刃牙』などの格闘漫画、『ファイナルファイト』などの格闘ゲームには、そのものズバリのキャラクターが多数登場。
『3年奇面組』『浦安鉄筋家族』などのギャグ漫画では、唯一無二の存在感をネタにされることが多いようだ。

お笑いやバラエティでも「異常に大きいもの=アンドレ」という方程式が成り立っており、例えに使われることも多い。プロレスしていた姿を知らない方でも、ワイプ上で一度は見たことがあるのではないか?

変わったところでは、ファッションアイコンにもなっている。
グラフィティ・ストリートデザイナーのシェパード・フェアリーによる世界的なデザインブランド「OBEY(オベイ)」。中でも有名なのが、アンドレの顔を大胆にフィーチャーした「OBEY GIANT」だ。

ポスターやステッカーになって全世界に発信されており、80年代末から90年代にかけて、スケーターを中心に爆発的な人気を集めている。
現在も数限りないファッションアイテムが登場中だ。

アンドレの大酒豪伝説とは?


レスラーとしてのピークは国際プロレスから新日本プロレスに移った時期か。
このころは体重200kgほどで体調も万全。

機敏な動きのド迫力のファイトでロープの留め金が外れる、キャンバスの下に敷いた板が割れるなどのアクシデントもあったほど。まさに規格外の怪物だ。
特に、81年9月23日、スタン・ハンセンとの田園コロシアムでの死闘はオールドファンには語り草である。

アンドレは体格の割には大食漢ではなかった。
(といっても、焼肉は大好物でロースやカルビ15~20皿は当たり前)。その代わり、とにかくアルコールが大好き。
ビールなら1日に大瓶40~50本、ワインなら20~30本を「休肝日」なしで飲み続けたという。日本酒は若手時代にひどく悪酔いしたので苦手とのことだが、その際の酒量は2升だったというから、やはり怪物。

札幌ビール園で大ジョッキを78杯飲み干したことを始め、その酒豪伝説は枚挙にいとまがない。

体調最悪状態だった前田日明とのセメントマッチ


大のビール党だったアンドレがワインメインに切り替えたのは、アンドレ史を語る上で外せない試合の後だという。
それは、86年4月29日、津市体育館で行われた前田日明との伝説の一戦。

アンドレが前田潰しのセメントを仕掛け、最終的にはアンドレがマットに大の字になる形でノーコンテストとなったいわくつきの試合である。

前年には膝に溜まった水を手術で抜くなど、コンディションが思わしくなかったアンドレ。同時にアルコールの摂取量がさらに増え、体重も増加の一途。推定250~270kgもの体重に身体が悲鳴を上げ、両膝、腰、背中が常に爆弾を抱えた状態にあったのだ。

この不穏試合が行われた背景には諸説あるが、思わしくない体調から来る苛立ちも大きかったのではないか?
ビールは尿酸値が上がって体に悪いとの周囲の勧めからワインにシフトしたアンドレ。しかし、そのワインを水のようにがぶ飲みし続けたという。

試合前から夜中まで飲みっぱなしだったとの証言もある。当然、コンディションはさらに悪くなって行く……。

自身の宿命との過酷な闘い


全盛期にはあの巨体を持て余すことなく上手に使いこなし、最強説も根強かったアンドレだが、晩年は自身の宿命とも闘わねばならなかった。

アンドレ本人が語った話によると、祖父はアンドレよりも大きく、父は普通サイズ、妹も2mあったが娘は普通サイズだったという。
つまり、「先端肥大症(アクロメガリー)」の隔世遺伝が出る家系のようで、本人の意思とは関係なく、体が大きくなり続けてしまうのだ。内臓への負担は大きく、様々な合併症を伴うリスクも高い。

こういったストレス、体調の悪化がアンドレの酒量をより増やす悪循環をもたらしていたことは想像に難くない。
しかし、人前で弱音を吐くことは決してなかったという。

90年代は「明るく楽しい」プロレスを全うしたアンドレ


WWF(現WWE)に巨万の富をもたらせたアンドレは、90年4月13日、東京ドームで開催された「日米レスリング・サミット」を機に全日本プロレスに移籍。

ファンの長年の夢だったジャイアント馬場との大巨人タッグを結成し、以降は「明るく楽しい」試合に従事。信頼できるパートナーであり、友人でもある馬場と過ごしたこの時期は、アンドレにとってかけがえのない時間だったに違いない。

93年1月29日、父親の葬儀のためにフランスに帰国したアンドレは、パリのホテルで急性心不全のため死去。享年46歳だった。

「俺は人生を最高に楽しんだから、いつ死んでもいい」

晩年のアンドレは、自身が長生きできないことを悟っていたという。
プロレスに人生を捧げた偉大なる巨人に乾杯!