「いだてん」ポスターの元ネタは?
その「いだてん」では、題字やポスターを美術家の横尾忠則が手がける。ポスタービジュアルの第1弾では、ドラマ前半の主人公となる日本人初の五輪代表の一人でマラソン選手の金栗四三(演じるのは中村勘九郎)が走る姿が、いくつもの写真をコラージュして表現されていた(画像は番組公式サイトを参照)。金栗が五輪に出場した時代にはないはずのペットボトルを持っていたりと、遊び心が感じられる。また、円を描くように配置された金栗の足は、題字の「いだてん」の4文字に付されたクルクル回る足と対になっている。その表現はマンガのようでもあり、マルセル・デュシャンや未来派の絵画をも彷彿とさせる。
このビジュアルからはまた、ランナーたちがスタートダッシュする瞬間の写真を用いた1964年の東京五輪の公式ポスターの一つ(1961年制作)が思い出される。このポスターは、写真家の早崎治がストロボを駆使して撮影したのを、グラフィックデザイナーでアートディレクターの亀倉雄策がデザインしたものだ。オリンピックの公式ポスターで写真を用いたのはこれが最初である。
横尾はいまから50年以上前にも、この東京五輪ポスターを元ネタとしたパロディ作品を発表している。それは、1964年に雑誌「美術手帖」に発表したイラストで、ランナーにはピカソ、ルオー、ビュッフェ、スーラ、そして頭ひとつ抜けてポップアートの旗手ロイ・リキテンスタインと、20世紀を代表する画家たちを当てはめ、元ネタでは「TOKYO・1964」とあったのを「POP・1964」に替えたというものだった。
この年、横尾は関西から上京して4年勤めた日本デザインセンターをやめ、フリーランスに転じた。東京五輪の会期中には、グラフィックデザイナーでイラストレーターの和田誠や写真家の篠山紀信(いずれも当時、広告制作会社に勤めていた)らと一緒にヨーロッパ6ヵ国を旅行している。それは、オリンピック選手を乗せて日本に来たチャーター機が、ヨーロッパに戻るのを利用すれば多少安い料金になるというので、日本広告技術協議会という団体が企画したツアーだった。
この3週間の旅行中、《見るもの触れるもの全てが珍しく、体中の毛穴が開いていく思いがした》横尾だが、旅行の最終地であるロンドンで、ポップアートの素材となりそうな素材をぎっしり描き込んだスケッチブックをタクシーに置き忘れてしまい、《旅行中の目の記憶と感情がこの一冊のスケッチブックと共に全て消えてしまったような寂しさと悲しみを最後に嫌というほど味わわされてしまった》という(横尾忠則『ぼくなりの遊び方、行き方 横尾忠則自伝』ちくま文庫)。
見る者に「猛烈な拒絶感」を与えた横尾作品
ヨーロッパ旅行から帰国した1964年の暮れ、横尾は日本デザインセンターの先輩である宇野亜喜良・田中一光・永井一正・灘本唯人と絵本『日本民話グラフィック』を刊行している。このとき彼が詩人の高橋睦郎と組んでつくった「堅々嶽夫婦庭訓(かちかちやまめおとのすじみち)」という絵物語には、エリザベス・テイラーやビートルズなどのスターが登場し、イングマル・ベルイマンやジョン・フォードの映画、また東京五輪のポスターなどがパロディ化されていた。1960年代の横尾作品を象徴する、海軍旗のような旭日のパターンが初めて登場したのもこの絵本である。これは彼が日本デザインセンター在籍中に担当していたアサヒビールの商標から発想したものだという。
旭日をはじめ土着的イメージを取り込み、けばけばしい色彩で描いた「堅々嶽夫婦庭訓」は、それまでモダンデザインに憧れ、その道を歩んできた横尾にとって大きな転機となった。彼はのちに自伝で、《情報工業化社会のマスメディアのイメージがポップアートの重要な主題だったとすると、ぼくは逆にモダニズムが切り捨てた前近代的なマスメディアのイメージを表現手段にしようと考えた。この行為は必然的にモダニズム批判として現代デザインと真っ向から対立する立場へとぼくを追いやることになった》と顧みている(『ぼくなりの遊び方、行き方』)。
その後、横尾には雑誌から徐々にイラストやエッセイ、対談の仕事が舞い込むようになる。1965年には前衛舞踏家の土方巽のダンスリサイタルのポスターを手がけ、画一的なモダニズム・デザインの閉塞状態から脱出に成功すると自信を深めた。以後、彼は知り合いとなった唐十郎主宰の劇団「状況劇場」の『腰巻お仙』など、当時アングラと呼ばれた劇団の公演ポスターをあいついで制作し、代表作となる。
状況劇場の『腰巻お仙』のポスターは多くの人に衝撃を与えた。のちにコピーライターとなる若き日の糸井重里もその一人である。
横尾の作品に対し、糸井と似たような感想を抱いたのが、作家の三島由紀夫である。三島は、1966年に開かれた横尾の個展の案内状に次のような一文を寄せた。
《横尾忠則氏の作品には、全く、われわれ日本人の内部にあるやりきれないものが全部露呈していて、人を怒らせ、怖がらせる。何という低俗のきわみの色彩であろう。
時代が生んだ時代の男
1960年代後半、横尾はイラストや文章にとどまらず、寺山修司らと「演劇実験室天井桟敷」を旗揚げして舞台美術を手がけたり、大島渚監督の映画「新宿泥棒日記」で主演したり、若者向けの朝のテレビ番組「ヤング720」にレギュラー出演したりと、あらゆるメディアで活動を展開する。テレビの深夜番組「11PM」で憧れの俳優・高倉健と対談したものの、二人して黙り込んでしまうということもあった。
彼の自伝で当時を振り返ったくだりを読むと、これまであげた人以外にもジョン・レノンと小野洋子夫妻など交友を持った多くの時代のスターが登場する。横尾自身もスターになったわけだが、それは彼の才能ばかりでなく、時代性によるところも多分にあると思われる。
70年代以降も、彼は自分の興味の趣くままに活動を続けた。「寺内貫太郎一家」や「ムー一族」などのドラマでは、題字やオープニングタイトルを手がけたほか、自ら出演もしている。インドでの神秘体験など、彼が興味を持つものが、そのまま若者たちのムーブメントにつながったケースも少なくない。1978年に横尾とインドを旅行したミュージシャンの細野晴臣は、そこでの体験をモチーフに二人でアルバムを制作、これがイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)へと発展する。細野が坂本龍一・高橋幸宏と結成したYMOには当初、横尾も参加する予定だったという。スケジュールの都合で結成発表の記者会見に出席できず、この計画はけっきょく幻に終わるのだが、会見用に用意していたタキシードはいまも横尾の手元に残る(先日、NHKのBSプレミアムで放送されたYMOの特番で証言した際、その現物を見せていた)。マイブームの語をつくったみうらじゅんも横尾に多大な影響を受けた一人だが、個人的なブームがそのまま世間でもブームになってしまうという意味でのマイブームの元祖こそ、横尾忠則だったのではないか。
いまから39年前、1980年の大河ドラマ「獅子の時代」では、主人公の一人、菅原文太扮する会津藩士・平沼銑次が、1867年のパリ万博に始まり、会津戦争、西南戦争、自由民権運動など幕末から明治にかけて起きたあらゆる事件に遭遇した。
今回の大河ドラマの仕事も、横尾にとっては一つの偶然だろう。この偶然がはたして、どんな人や事件を呼び込むのか。ドラマ本編とあわせて、この1年間楽しみにしたい。
(近藤正高)