史実以上に理想主義者として描かれた嘉納治五郎
物語は1959(昭和34)年、落語家の古今亭志ん生(ビートたけし)が娘の美津子(小泉今日子)とタクシーに乗っていたところ、渋滞に巻き込まれるシーンから始まった(タクシーの運転手を演じていたのは東京03の角田晃広だ)。このころ、東京は5年後の五輪開催地に立候補しており、工事ラッシュが始まっていた。志ん生はこのとき車中から、道路を足袋を履いた男が駆けていく姿を見かけると、ふいに古典落語「富久」を思い出す。火事が起きて、浅草から芝を走り回る幇間(たいこもち)の噺だ。
時期を同じくして、JOC(日本オリンピック委員会)委員の田畑政治(まさじ。阿部サダヲ)のもとに、まもなく行なわれる西ドイツ・ミュンヘンでの五輪開催地選考会で、東京のプレゼンを行なう予定だった外交官が外務省の運動会でケガをしたとの報せが入る。田畑や東京都知事の東龍太郎(りょうたろう。松重豊)はおおいに焦るが、代役をNHK委員の平沢和重(星野源)が務めることになった。はたして選考会当日、平沢は、小学校の教科書を手に、オリンピック精神は日本の子供たちにも教えられていることを堂々とアピールし、見事、招致成功へと導く。
ドラマ終盤のクライマックスになるであろう場面を、いきなり初回の冒頭に持ってきた格好だが、物語はこのあとも、志ん生を語り手に、過去(明治40年代)と現代(昭和30年代)を行きつ戻りつ展開される。本筋は過去のシーンにあるのだが、現代のシーンでも、志ん生のもとに弟子入り志願の若者(神木隆之介)が訪ねてきて、何やら物語が生まれそうな気配だ。過去と現代と物語が並行して進み、やがて交錯するという構成は、宮藤官九郎はすでに朝ドラ「あまちゃん」に採り入れているが、「いだてん」ではより複雑な形で試みようとしているらしい。語り手の志ん生も、過去のシーンでは、森山未來演じる若き日の美濃部孝蔵(志ん生の本名)として登場し、物語を進めていく。
複雑な構成をとりながらも、エンドカードで「このドラマは史実を基にしたフィクションです」と謳っているだけに、ときに大胆なアレンジで、事実よりも明快に描かれている部分もある。第1話でいえば、嘉納治五郎(役所広司)の描き方にそれを感じた。嘉納は東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長時代の1909(明治42)年、「近代オリンピックの父」クーベルタンから駐日フランス大使を介して五輪参加を要請されるも、周囲から強い反対を受け、いったんは断ろうとする。が、大使から次のストックホルム五輪のスタジアム(の設計図)やポスターを見せられると、再び情熱を取り戻し、参加に応じると伝える。さらに五輪選手の選出母体として設立した「日本体育協会」に対し、既存の「日本体育会」(体育の普及と指導者養成を目的に設立された団体)から類似団体は認められないと反対されるや、その場で筆で「大」の字をしたため、「大日本体育協会」と改称してしまう。
このように、ドラマでは、嘉納はいかにも無邪気で、徹底した理想主義者として描かれているが、実際にはもっと現実主義的で、政治手腕もかなり持ち合わせていたようだ。五輪参加の前提となる団体の設立にあたっても、日本体育会から拒絶されると、東京帝国大学(現・東京大学)や早稲田、慶応義塾といった大学の協力を得た上で、会合を何度となく開き、賛同者を増やしながら大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)を発足させたという(池井優『オリンピックの政治学』丸善)。
しかし、嘉納がスポーツ社交団体の天狗倶楽部の若者たちの支持も得て、オリンピック予選会の開催にまでこぎつけるという第1話のストーリーからすれば、彼はやはり不器用なまでに理想主義者でなければならなかったはずだ。嘉納が五輪参加の準備資金を捻出するため自宅を抵当に借金したという話も、この設定だからこそ説得力があった。
第1話では、ドラマの後半の主人公となる田畑政治を冒頭に出す一方で、前半の主人公である金栗四三(中村勘九郎)はラスト、羽田でのオリンピック予選会のシーンでようやく登場した。かぶった帽子の染色が雨に濡れて流れ出し、顔を真っ赤に染めながらゴールを切る金栗の姿は、まるで歌舞伎の隈取りのようで、思わず「いよっ、中村屋!」と声をかけたくなった。ちなみに帽子の色が落ちたというのは、制作統括の訓覇圭によれば史実だとか(「スポーツ報知」2018年12月14日)。
今夜放送の第2話からは、金栗の生い立ちが描かれるが、いずれまた話がオリンピック予選会に戻ってきたときには、今度は金栗の視点からレースの模様が描かれるのだろうか。
【レビューB面】羽田とオリンピックの奇妙な因縁
オリンピック予選会の開催にあたっては、京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)が所有する羽田の土地にグラウンドが建設された。ドラマのなかで描かれたように、これは、天狗倶楽部の会員だった中沢臨川(りんせん。近藤公園)が京浜電気鉄道に勤めていたことから実現した。中沢は作家として名を残すとともに、会社では電気課長であり、グラウンド建設にあたっては技士として建設計画、施工を担当している。
東京の品川と横浜を結ぶ京浜電気鉄道が、蒲田から羽田までの支線を開通したのは意外に早く、オリンピック予選会の9年前の1902年のこと。これは穴守稲荷神社の参詣客輸送のため建設され、当時は「穴守線」と名づけられた。穴守稲荷は、明治後期から昭和戦前にかけて東京近郊でも有数の行楽地的神社であり、その周辺は歓楽街と栄えたという(鈴木勇一郎「東京の郊外と住宅地の開発」、水内俊雄・鈴木勇一郎・大門正克・森田真也・岡本真佐子『「開発」の変容と地域文化』青弓社)。スタジアムはこの稲荷の裏の海岸のそばに建設された。
スタジアムは予選会のあとは、野球場などとして使われていたが、1916年に一帯を襲った大洪水で流出してしまう。中沢は、天狗倶楽部のメンバーだった押川春浪(ドラマでは武井壮が演じている)や河野安通志らの働きかけもあり、会社に再建を求めた。だが、採算上の理由から通らず、中沢は社長を「馬鹿野郎」と面罵して退社するにいたる(東田一朔『プロ野球誕生前夜』東海大学出版会)。
時代は下り、羽田の地には1931年、羽田飛行場が開港する。これが戦後、東京国際空港と改称され、1964年の東京オリンピックでは、外国から選手を迎える玄関口となった。京浜急行の穴守線も、オリンピックの前年に現在の空港線と改称されている。この地で日本初のオリンピック予選が開かれたことを思えば、地縁を感じずにはいられない。
(近藤正高)