’80年4月1日、『裸足の季節』でデビューした松田聖子(60)。8月14日には、2枚目の『青い珊瑚礁』で音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)に初ランクイン。
その2カ月後、日本歌謡大賞で放送音楽新人賞を受賞。『青い珊瑚礁』を歌う途中におえつし、母親がハンカチで聖子の目を拭った。カメラはその顔をアップで捉えたが、涙は流れていないように見え、『ウソ泣き』とたたかれた。
聖子はそれさえもプラスに変えた。『ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京系)で121回も共演した、あのねのねの清水国明(71)は、コントでの勘所のよさに感心した。
「『ぶりっ子』とか『ウソ泣き』と突っ込んでも、『イヤだ~』とか『涙出てますよ~』といいリアクションをしてくれました。魚の“ぶり”の被り物もしてくれたし、すでに、求められる自分の役回りをわかっていたんですね。なんでもやってくれるので助かりました。
コントでは思いっきり緩い部分を見せてくれるけど、歌ではきちんとカメラ目線で決める。そのギャップがすばらしかった」
天性のアイドルである聖子は、研究熱心な一面も。
「どんな写真が撮れたか確認してもらうため、アイドルにはポラロイドを見せていました。ほかの人はその場でチラッと目にするだけですが、聖子さんは『いただけますか?』と欲しがるんです。今考えると、家で自分の表情を研究していたのかもしれません。努力を惜しまない天性のアイドルですね」
歌唱力も兼ね備えていた。編曲家の船山基紀氏はこう評する。
「アイドルという立ち位置だと、速いテンポで曲を押していって、聴き手に『歌っている』と感じさせる必要があります。でも聖子さんは伸びのある声でじっくり歌を聴かせられるので、ミディアムテンポでも曲を作れる。幅広くいい歌を引き寄せる実力がありました」
■「年齢関係なく、光り輝く存在がアイドル」
歌唱力の高さと楽曲のよさはLPの売り上げにも表れた。ほかのアイドルが1ケタにとどまるなか、聖子は常時30万枚前後を記録。’82年1月に松任谷由実(ペンネーム・呉田軽穂)作曲の『赤いスイートピー』を発売すると、同性からの支持も得るようになった。
「あの曲以降、女性ファンが増え、コンサートの観客の男女比は半々くらいになっていきました。
当時、アイドルは通過点と捉えられ、一生続けることは不可能だと思われていた。だが、聖子は21歳で新たな価値観を話していた。
《25才でも30才でも、みんなに愛され、光り輝いている存在、それがアイドルだと私はとらえているのね。だから、歌っている間はアイドルでいたい》(『女性セブン』’84年2月2日号)
先輩の渋谷哲平は「当時のアイドルの寿命は2~3年だった」と語る。
「僕はアイドルと呼ばれることを心のどこかで拒絶していたし、20歳過ぎたらアイドルではないと思っていました。聖子さんは当時、ブリっ子と言われていましたけど、媚びを売ってる風情は全くなかった。アイドルが天職だと思います」
’85年6月に神田正輝(71)と結婚し、翌年に長女・沙也加さんを出産。聖子人気は衰えず、オリコンの連続1位記録を更新し“ママドル”という新しい概念を作った。前出の清水国明も言う。
「年齢を重ねると、芸能人は今までの自分からの脱皮を試みる。すると、逆にいい面が消えてしまう。聖子ちゃんは自分の役割をわかっていてアイドルでいることを辞めない。
■「スタジオに入ったら音楽に集中して余計な話はしない」
30歳のときからセルフプロデュースを始めた聖子は、4年後の’96年に『あなたに逢いたくて~Missing You~』で8年ぶりのオリコン1位で初のミリオンセラーを記録。作詞家、作曲家としても評価された。前出・船山氏は言う。
「ファンの求める松田聖子像や自分の世界観をわかっていて、それに合う音楽を書ける。デビューのころからいろんな曲を歌ってきたことで、自分の気持ちいいメロディや言葉が体内に蓄積されたのだと思います。だから自然と聖子さんの世界ができあがるんでしょう」
聖子が45歳のころ、船山氏はシングル2枚とアルバムに携わった。何度会っても、いい意味での緊張感が保たれていたという。
「聖子さんはスタジオに入ったら音楽に集中して余計な話はしない。僕が勝手に感じているだけかもしれないけど、気やすく声を掛けてはいけないような特別な存在感がありました。芸能界の頂上にいる別格の雰囲気を持っています」
’17年、全米リリースの『SEIKO JAZZ』はアメリカの最大手配信サイトでベストセラー部門4位の快挙を達成。聖子はアーティストとしても成功を収める一方で、今もアイドル性はまったく色あせない。希代のアイドルには十分な休息を取ってもらい、心身が回復したらステージに立ってほしい。
(取材・文:岡野誠)