読書の効能とは何か。『書物を楽しむ あえて今、紙の本を読む理由』(朝日新書)を出した作家の林望さんは「ただただ愉快痛快なだけの本も、それまた読書の大切な役割だ」という――。

■読書には2つの側面がある
まず私の読書史のなかで、最大の作家といったら、前述の如く、あのハードボイルド小説の大藪春彦です。
大藪作品はもう全部読みました。別にそこから人生を学ぶとか、深い感銘を受けるとかいうわけではなく、本当に純粋な意味でのエンターテインメントとしての読書でした。
そもそも読書には、勉強あるいは研究という側面と、それから娯楽、エンターテインメントという側面と、二つの在り方があると思います。
もっとも、非常に面白い作品を研究したりすれば、勉強がすなわちエンターテインメントともなり、そうではなく、読んで「ああ面白かった!」で終わる、まったくのエンターテインメントというものもある。
人によっては、学術書・研究書のような本を、娯楽的に面白く読む人もあるかもしれませんが、私はそのような経験はしたことがありません。読書ということを、「人生を豊かにするための一つの楽しみ」だと定義をすると、研究書のようなものは、ふつうその中には入らない。少なくとも学問を専門としない一般の方にとっては学術書のようなものは、たぶんほとんど無意味な本でしょう。
■大藪作品の圧倒的なカタルシス
そうしたものはまず一旦除外して、いわゆる大衆小説となると、これは純粋に読むことが面白くて愉しくて、どうかすると寝食を忘れて読みふけってしまう、そんなこともよくあります。これが醇乎(じゅんこ)たる「読書の楽しみ」かもしれません。
特に、エンターテインメントの中でも大藪春彦が面白かったのは、戦後のまだ日本が低調であった時代に、快刀乱麻を断つの筆勢というか、文字の劇画というか、活劇映画を活字で見るとでもいうような、そして最後には必ず主人公が暗黒世界の敵を倒す、という胸のすくような感じ……つまり圧倒的なカタルシスがそこに用意されていたからです。
昭和39年に刊行された『蘇える金狼』では、まだ今とは全く社会が違って、日本の社会は全体に貧しく低調で、庶民はそれこそ汲々(きゅうきゅう)とした生活を送っている、そんな時代にイタリアのドゥカティというオートバイにまたがって、まさに神出鬼没、自由自在な活躍を見せて、最後のカタルシスに私どもを連れていってくれる、その読書的快感は当時並びないものでした。

颯爽とポルシェを運転したり、マシンガンをぶっ放し、まわりの女性を魅了してやまない圧倒的美男と叡知、そこへ超人的な肉体を具(そな)えて、まあ男の私にとっては、せめて夢にでも見たいという理想的なナイスガイなのでありました。
要するに日本版のジェームズ・ボンドのような話です。
■代えがたいマンネリズムの快感
ま、これは相性ということもありましょうけれど、その後に生島治郎など、いわゆるハードボイルド小説をあれこれ読んでみたけれど、私のなかでは、やはり大藪春彦には一籌(いっちゅう)を輸(ゆ)するというのが正直な感想でありました。
あのなんとも言えない、「いいのか、それで!」と思うような「ご都合のいい感じ」が、他の作者の書いたものでは味わえないのです。
大藪作品には良い意味でのマンネリズムが横溢(おういつ)していて、これはまあ『水戸黄門』や『遠山の金さん』のテレビドラマを見た時に感じる快感と同質のものでした。
これは、褒め言葉です。たとえば、映画の『スーパーマン』でも『ターザン』でも、結局ご都合主義的に物事を美しく解決してしまうでしょ? それが良いのです。
そういう一つのスタイルを作り上げたのが大藪春彦という作家で、私にとっては、余人を以て代えがたい名手であったと言うを憚(はばか)りません。
つまり、現実の世の中では、必ずしも正義は勝たないので、いやいやたいていは正義なんか通りはせず、結局悪が勝つというのが実際でしょう。だから、いくら正義を唱えても、悪らつな独裁者には敵わない。
■孤独のヒーローの無双の真髄
そうした中で、大藪春彦の小説の主人公がターゲットとする悪は、いわゆる旧勢力の政治家です。
あくどく腹黒い商人が政治家と結託して、国を壟断(ろうだん)している。
そういう奴らが大豪邸に住んで、愛妾(あいしょう)を何人も侍(はべ)らせて、というような「悪のスタイル」があって、それに対して『野獣死すべし』の伊達邦彦みたいな男が、いつもたった一人で立ち向かう。彼は常に孤独のヒーローなのです。
そうそう、劇画世界でいえば、あのゴルゴ13というのが同質のヒーローですね(ですから、私は『ゴルゴ13』も大好きです)。
そして、彼は決して捕まらない。警察は無能の集団のように書かれていて、悪人を何人殺しても警察に捕まったりはしない。どこからそんな金が出ているのかわからないけれど、彼の周辺には当代のすばらしいスポーツカーやレーシング・オートバイや、精密無双の銃砲などがいくらでもある。
当時はまだ日本人は貧弱で小さな肉体を持ち、その意味ではとうてい筋骨隆々たる西洋人には敵すべきもなく、また当時の一般民衆は、今の日本人よりずっと平板で東洋的な風貌が脆弱な肉体の上に乗っているという風情であったのに対して、大藪のヒーローは誰も彼も、みな彫りの深い大変なハンサムで、鋼鉄のように強靱な肉体は、鉄砲で撃たれても死なず、負傷したとしても、自分で治療をするうちにたちどころに治ってしまったりする。
それこそ、どれもみなご都合主義ではあるけれど、いやいや、そこにこそエンターテインメントとしての小説の面白さが凝結していたと言って差し支えないのです。
■勉強漬けを救ってくれた読書体験
私は当時、非常に悩ましい、そしてさっぱり先の見えない、勉強ばかりの苦しい日々を過ごしていました。
古典の文献を読み、それらについて書かれた学術論文を読み、朝から晩まで、それこそ一日中勉強していると、もう心がうんざりしてきます。同時にしかも、これから先の展望はまったく開けない、念願であった母校慶應義塾大学での研究職もしくは教職への希求は何度も何度も失敗つづきで、さあこの先どうなるのか、暗澹たる気持ちを抱きながら、ただひたすら先の見えない勉強を続けていた、というところでした。
そしてこういう抑鬱的な日々のなかで、ともかく勉強だけは休むことができませんから、いきおい脳は過活動状態となり、そのままだと眠れなくなるんですね。

だからこそ、なんとかして、この勉強過剰で活動が停止できない脳を休ませる方法を私は必要としていました。それが大藪春彦だったのです。
■脳を休めてくれた無条件の「痛快感」
勉強にひとまず切りをつけてから、夜寝る前にベッドのなかで大藪春彦を開き、心を空(むな)しくしてどんどん読み進めて行くと、自然と痛快な気分となって脳の興奮状態が治まってきます。
かくて夜中の二時三時に、ひとしきり大藪ハードボイルドを濫読すると、ヒーロー伊達邦彦などがめでたく悪人ばらをやっつけて爽快なるカタルシスが訪れる、そのタイミングで、さっと寝る。
この読後の爽快感、あるいは何も考えずにただスラスラと読み飛ばしていくスピード感、大藪が当時の私に与えてくれたものは、ともかく無条件の「痛快感」でした。
その読書が、「何かを考えさせてくれた」とか、「新しい知見を授けてくれた」とかいうようなことはまったくなくて、ただただ愉快痛快なだけの読書、それが苦しみの日々の、こよなき心の慰安になるなら、それもまた読書の大切な「役割」であった、と私は総括しています。
こういう作用は、池波正太郎の『剣客商売』なんかでも同じことで、私は、世の中で「大衆文学」と言われている、そういうジャンルの作品群に非常に強いシンパシーを感じています。
思想よりも、哲学よりも、文学が人々の役に立つという存在であるのは、むしろこういう大衆的な娯楽としてのそれであろうと、私は堅く信じています。そしてそういう読書が、難しい純文学を読むことより下位にあるなんてことは、これっぽっちも思いません。

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林 望(はやし・のぞむ)

作家・書誌学者

1949年、東京生まれ。作家。国文学者。
慶應義塾大学大学院博士課程修了。ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等を歴任。専門は日本書誌学、国文学。著書に『イギリスはおいしい』『節約の王道』『「時間」の作法』など多数。『謹訳 源氏物語』は源氏物語の完全現代語訳、全10巻既刊9巻。

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(作家・書誌学者 林 望)
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