※本稿は、北村俊雄『東大名誉教授が教える 死なない生き方』(日本経済新聞出版)の一部を再編集したものです。
■“全てを覚えていること”は不可能
記憶を保ち若さを保つためにはどうすればいいか、身近なところから考えてみよう。
記憶や情報は、どうしても削除されていく。それを全て保つことは不可能だ。なぜなら、限られたスペースに保存できる情報には限りがあるからだ。
新しい記憶や情報を脳に入れるためには、昔のことを忘れる必要があると考えると、気が楽だ。若さを保つためには、過去への後悔や、現在の諸問題をくよくよと考えるのではなく、未来への希望について考えることが大切だと思う。本稿では、記憶について科学的な側面から説明し、高齢になっても知力と記憶力をできるだけ保つためにはどうするのが良いかを紹介する。
記憶力や学習能力の低下は、高齢では避けることができない。思考することが仕事である科学者にとっても、脳の健康は死活問題だ。
もし脳の能力を若い時の状態に戻すことができる方法があるなら、まず私が教わりたいぐらいだ。それでも、可能な限り脳の劣化を防ぐことは訓練次第だと考えて、いくつかのことを実践している。ここではその方法を紹介したい。
■「脳の引き出し」を時折チェックしてみる
年齢を重ねると、人や物の名前が思い出せないことが多くなる。そんな時、私は調べずに思い出すようにしているが、いつも不思議に思うことがある。一生懸命思い出そうとしている時には思い出せず、諦めた頃にふと名前が浮かぶことが多いのだ。その時、脳の中で何かがつながる感覚がある。
脳が活性化され、失われかけた回路がつながったと考えると嬉しい。私に限らず、同じような経験がある人は結構いるようだ。
本書にも記載したように、記憶を保つためのサプリメントも販売されている。だが、サプリメントより効果があるのは脳を使うことだ。
記憶力が人並み外れた私の友人は、時間がある時に、頭の中のたくさんの引き出しに何が入っているか、一つずつ確かめるそうだ。
私は若い頃から記憶力にはあまり自信がないし、最近はますます怪しくなってきた。ただ、考えることは好きなので、研究のこと、趣味で書いている小説のストーリーのこと、音楽のことなど、エレベーターに乗っている時間、バスを待っている時間などのスキマ時間にはいろいろと考えるようにしている。そして考えることが脳を刺激し、脳の老化を防ぐと期待している。
■「1日30~40分の早歩き」で海馬が大きくなる
先日、1日に30~40 分早足で歩くと、海馬が大きくなるという論文を知り合いの著名な脳科学者から教わった。読んでみたところ、アメリカの権威ある雑誌に掲載された、運動療法や認知症で有名な研究グループから発表された信用できる内容の論文だった。
(Kirk I. Erickson, Michelle W. Voss, et al.「Exercise training increases size of hippocampus and improves memory」)
海馬は脳の中心にあり、記憶を司る場所である。論文では、ルームランナーで徐々に歩行速度を上げていく群と、ヨガやストレッチ、バーベルなどを行う対象群で、開始前と6カ月後、1年後に脳を調べている。いずれも運動は週に3日、40分程度の時間だ。対象群は年に約1.4%海馬の体積が減少した。これは50歳以上の人の標準である。
一方、早足歩きを1年間続けた人の海馬の体積は2.0%も増加したというのである。
神経栄養因子の増加は対照群に比べて有意な差はなかったが、早足で歩いたグループでは、記憶力の向上と神経栄養因子増加に相関があったことから、運動によって神経栄養因子が増加して、記憶力が改善したと結論している。
運動によって血流が良くなり、海馬のサイズが大きくなり、記憶力が改善することは以前からマウスやヒトで報告されていた。
今回の論文では、運動によって海馬の体積が増加するが、増加するのは海馬のうち記憶の固定に重要とされている前部だけであり、脳の他の部分の体積も変わらなかったという。
■記憶は“断片的なもの”
人や物の名前が思い出せないというのは、具体的に思い出す必要があるからだ。一方では、気がつかないうちに欠落する記憶はたくさんあるだろう。記憶の一部がどんどん欠落していき、最終的にはとても断片的な記憶しか残っていないことは、次の話でお分かりいただけると思う。
古い友人と話した時に、一緒にいたある日のことをよく覚えているという意見が一致した。
「そうだ、あの日はとても印象的な日だった」と2人で懐かしがったのだが、驚いたことに、というより興味深いことに、その日のことで覚えていることが全く重複しないのである。
つまり私が印象的だったその日のことを語っても、相手は「そんなことあったかな」と言い、逆もまたしかりである。
■記憶のメカニズム解明が待たれる
世の中は情報にあふれている。科学の世界でも怪しい論文も含めて日々大量の情報が流れてくる。それらを全て網羅することは到底不可能だし、必要なことだけは全て知りたいというのも現実的ではない。
脳にも当然のこと、容量制限があり、ある一定以上の情報は入らない。だから不必要なことは忘れよう、そして新しい知識も網羅しようとは思わず、興味を持ったものだけを記憶に取り入れよう。運が良ければ、次のステップにつながるヒントが得られるかもしれない。
では、脳はどのようにして記憶と情報を整理しているのだろうか? 必要がなさそうな記憶や情報を、選択的に削除していくことはできるのだろうか?
なんの意味もないような記憶が執拗に残っていることがある一方で、大事なことを忘れてしまっていることに気がつく。脳が記憶と情報を落としていく時に、その記憶や情報の重要さを基準にはするのは、直感的にも難しいことと思える。だからといって、重要性に関係なく任意(ランダム)に落ちていくのも困る。
ランダムではないとすれば、どのようにして整理されているのだろうか? 記憶のメカニズムの解明が待たれる。
(参考文献)
・「思い出を選んで残すメカニズムを解明」理化学研究所HP
・「海馬から大脳皮質への記憶の転送の新しい仕組みの発見」理化学研究所HP
・「睡眠と記憶に関する近年の知見」(鈴木博之、『精神保健研究54号』、2008年)
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北村 俊雄(きたむら・としお)
神戸医療産業都市推進機構先端医療研究センター長、東京大学名誉教授
1956年大阪府で生まれ兵庫県で育つ。東京大学医学部卒業後、内科研修を経て医学部第3内科に入局。国立がんセンター研究所ウイルス部に出向して白血病ウイルスの実験に従事した。その後、第3内科に戻り血液内科の臨床と研究を行う。32歳で米カリフォルニア州DNAX 分子生物学研究所に博士研究員として留学。37歳で小さな研究室で独立。40歳で帰国し、東京大学医科学研究所で日本初の寄付講座を担当。1991年、同研究所先端医療研究センター教授。同センター長を経て、2022年から現職。
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(神戸医療産業都市推進機構先端医療研究センター長、東京大学名誉教授 北村 俊雄)

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