牛丼の「すき家」を展開する外食のゼンショーHD創業者・小川賢太郎氏が亡くなった。小川氏は第一号店を1982(昭和57)年にオープンさせたが、自身はもともと1899(明治32)年創業の老舗「吉野家」出身。
ジャーナリストの田中幾太郎さんは「両社の歴史を振り返ると、社長の学歴や経営方針・社風に大きな違いがある」という――。
■「東大」は絶好のアピールポイント
すき家やはま寿司などを運営する外食最大手ゼンショーホールディングス(HD)の創業者・小川賢太郎が4月6日、心筋梗塞で急逝した。77歳だった。
2025年3月期、外食では初めて売上高が1兆円を突破。一代でトップ企業を育て上げた手腕をたたえる声がある一方で、その売上至上主義がかつて労働問題を引き起こし世間のひんしゅくを買うなど、経営者としては評価が大きく分かれた。
訃報を伝える日本経済新聞(4月8日)は「いつも眼光鋭く、インタビューや記者会見で笑顔を見せることがないこわもて」と評したが、「かつてはとても愛想がよかった」と振り返るのは外食業界紙の元デスクだ。小川がゼンショーを創業してまもなくの頃、たびたび取材をしたというこの人物は次のように話す。
「(以前在籍していた)吉野家(現吉野家HD)を飛び出て、すき家をオープンさせたばかりで、なんとしても成功させなくてはと必死だったのだろう。笑顔を絶やさず、こちらが振った質問になんでも答えてくれた。東大全共闘時代のことはむしろ、積極的に口にするほどだった。中退とはいえ、当時の外食業界には東大出身者はほとんどおらず、絶好のアピールポイントになった」
■名門「新宿高校」の校長室占拠
1948年7月生まれ。“団塊の世代”真っ只中の小川は父が航空自衛官という家庭で育った。
体育会系のマッチョな雰囲気を漂わせていたのは父の影響かもしれない。都内の中学を経て、当時最難関のひとつ都立新宿高校に進んだ。
東大合格者の集計が始まった1951年以降、入試が中止された1969年の前年まで高校別ランキングで7位以下に落ちたことはないという超進学校だった。
だが、過熱する受験戦争の緩和を目的に、特定の高校に志願することをできなくした「学校群制度」が1967年に導入されると情勢は一変。それまで東大合格者数で上位を占めていた日比谷、西、戸山、小石川といった都立高校は一気に凋落した。新宿高校も1970年以降、東大合格者トップ10に一度も入っていない。
新宿高校は1960年代後半に学園紛争が起こったことでも知られているが、激しくなるのは小川の卒業後だ。3学年下の塩崎恭久(元内閣官房長官)やミュージシャンの坂本龍一らは制服の廃止や受験偏重教育の是正を求めて校長室を占拠し、10日間のストライキを決行した。一方、自身を「革命戦士だった」と語っていた小川が学園紛争にのめり込むのは東大に入ってからである。
1968年春、1浪して東大理科二類に合格。将来は生物化学の学者になりたいと思っていた。だが、夢どころではない方向に小川は引っ張られていくことになる。

東大の学内はすでに風雲急を告げていた。医学生にタダ働きを強いるインターン制度に反対する医学部が決起。安田講堂を占拠すると、大河内一男総長は機動隊を導入し、学生たちを排除した。小川が東大に入学して2カ月あまりが経った6月半ばのことだった。大学当局のやり方に全学部が反発。東大闘争全学共闘会議(全共闘)が結成され、学園紛争は激しさを増していった。
■左翼運動に見切り
小川はクラスの代表「自治会代議員」に選出され、全共闘に参加。ノンセクトの闘士として活動を続けていたが、しばらくすると学生運動に限界を感じだした。研究者への道も闘争に明け暮れる中で見えなくなっていた。東大に入って3年目、小川は中退を決断した。
ゴリゴリの左翼活動家と化していた小川は東大をやめると、横浜の港湾作業会社で働きだした。荷物の積み下ろしに携わりながら、労働者を組織化しようというのだ。
しかし、状況を知るにつれ、次第に幻滅を覚えるようになる。港湾関連の労働組合は国政政党を支える下部組織になっていて、小川が考える革命とはほど遠いものだった。
左翼運動に見切りをつけ、通信講座を受け始めた。東大の後輩の女性と結婚し、出産を間近に控えていた。生活費を稼ぐ必要に迫られ、中小企業診断士の資格を取ることにしたのだ。そんな時たまたま、新聞で吉野家の求人広告を目にした。
本社を訪れると、そのまま入社が決まった。1978年のことだ。「やはり東大の肩書は大きく、最初から将来の役員候補だった」と話すのは当時の吉野家の事情に詳しい前出の元業界紙デスクだ。入社2年目に早くも経理部次長に抜擢された小川だったが、吉野家に長くとどまることはなかった。
■吉野家の倒産騒動に巻き込まれ独立
1980年初頭、吉野家は存続の危機に陥っていた。創業者・松田瑞穂社長による1970年代後半の急速な店舗拡大のツケがまわってきたのだ。
過剰出店によって赤字店が続出。さらには、原材料の米国産牛肉の価格高騰が重くのしかかった。十分な量の牛肉が確保できず、松田社長は乾燥冷凍肉を使うという禁じ手に打って出る。当然ながら味は落ち、客離れが一気に進んだ。
倒産が迫る中、松田社長と吉野家の3分の2の株式を握る不動産業者の新橋商事の間で主導権争いが繰り広げられていた。小川は新橋商事の側に取り込まれていた。片や、松田社長についたのが、のちに吉野家社長(1992~2014年)となる安部修仁である。
安部の経歴は、小川とはかなり異なるものだった。1949年9月、福岡県糟屋郡で生まれた安部は地元の県立工業高校を卒業すると、プロのミュージシャンを目指して上京。音楽業界に伝手はないので、いったんは印刷会社に就職した。
1年後、プロダクションに所属できたものの、キャバレー回りの日々。すっかり嫌気が差し、プロダクションを離れフリーのバンドを結成したが、当てにしていた仕事は取れず、あえなく解散。
再起までの間、食いつなぐために始めたのが吉野家でのアルバイトだった。
ある時、安部は店長から、本社で適性検査を受けてこいと命じられた。この適性検査が松田社長が編み出したアルバイトを社員にする仕組みだった。安部は自著『吉野家 もっと挑戦しろ! もっと恥をかけ』(廣済堂出版)の中でこう説明している。
「当時の飲食業は『水商売』と蔑まれ、優秀な大卒が就職先の対象にする業界ではなかった。したがって、他に目的を持ったアルバイトにポテンシャルの高い素材がいるだろう、教育は社員となってから会社でやればいいという考え方でした」
つまり、中退したとはいえ東大出身者である小川が求人広告を見て面接に来たこと自体、その頃の吉野家にとっては驚くべきケースだったのだ。
さて、吉野家本社で適性検査を受けた安部は、ちょうどアルバイトを始めてから1年後の1972年2月、正社員となった。小川より6年早い入社である。音楽の世界をあきらめた安部は松田社長からもっとも信頼される右腕となっていく。
■一代で売上1兆円の王国を築いた
倒産を見据え、その後の対策を練っていた筆頭株主の新橋商事や小川らに対抗し、松田社長は最後のあがきをしようとしていた。銀行取引停止処分(事実上の倒産)が科される1980年7月15日、松田は会社更生法の適用を東京地裁に申請するのである。
前出の安部の自著によると、その直前に松田のシンパ5人が集められ申請を告げられたが、誰も賛成する者はいなかったという。
外食に適用されるとは思えなかったのである。
だが、はからずもこの申請が通ってしまった。新橋商事に近い関係者は「寝耳に水だった」と振り返る。きっと小川も同じ心境だったに違いない。
吉野家には保全管理人が入り、債権者は勝手に所有権の移転ができなくなってしまった。そこで新橋商事に肩入れしていた小川は吉野家の事業から完全に離れ、冒頭で触れたようにゼンショーを創業し、一代で売上1兆円を築く王国を率いた。一方、吉野家は1987年に更生債務を全額完済し、更生計画を完了。それから5年後、安部は社長に就任した。
その後、安部の吉野家、小川のゼンショー、ともに時代の荒波を乗り越え、成長していく。とりわけ小川は企業規模を拡大し、自身もフォーブスジャパンによる2025年版「日本長者番付」の上位50人の中にランクインし(5660億円)、週刊誌などに「高卒億万長者」のひとりとして報じられたこともある。
■東大出身エリートvs叩き上げ
そして昨年5~6月、吉野家HD、ゼンショーHDはそろって新社長が誕生した。
吉野家HDの社長に就いた成瀬哲也は中京大に入学すると同店舗でアルバイトを始めた。3年の時に大学を中退し社員となったので、学歴は「高卒」となる。前社長の川村泰貴会長も高卒でバイトからのスタートというキャリアで、安部から3代続いて高卒(大学を卒業していない)→バイト→社長という異色のキャリアだ。
他方、ゼンショーHDはどうか。小川賢太郎も東大中退で「高卒」となるが、新社長になった賢太郎の次男・洋平は父と同じく東大に合格し、こちらは卒業している。社長交代は1982年の創業以来初めてである。教養学部を卒業後は財務省に入省したエリートだ。といっても、「東大法学部出身が幅を利かす財務省にあってはそれほど目立つ存在ではなかった」(同省担当記者)という。ゼンショーHDには10年前に入社し、海外戦略を担当してきた。
吉野家HDの社長の経歴が店に立って牛丼を売るところから始まっている意味は非常に大きい。創業以来の味を守ることに腐心する姿勢が鮮明だ。その方針を代々の社長が愚直に貫いたことで「牛丼といえば吉野家」というブランド力を維持してきた。ゼンショーHDのすき家がトッピングによって牛丼にさまざまなバリエーションを加えているのとは対照的だ。
牛丼にそれほどこだわりが見られないゼンショーHDの原動力は2代続く東大出身らしい緻密な戦略である。まず、机上でシミュレーションして、M&A(合併・買収)によって「ココス」「ロッテリア」「なか卯」「ジョリーパスタ」など外食企業を次々に傘下に収め急成長した。
「東大DNA」vs「3代続けての叩き上げ」による牛丼対決。第二章がどう展開していくのか、目が離せない。(文中敬称略)

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田中 幾太郎(たなか・いくたろう)

ジャーナリスト

1958年、東京都生まれ。『週刊現代』記者を経てフリー。教育、医療、企業問題を中心に執筆。著書は『慶應三田会の人脈と実力』『三菱財閥最強の秘密』(以上、宝島社新書)、『日本マクドナルドに見るサラリーマン社会の崩壊/本日より時間外・退職金なし』(光文社)ほか多数。

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(ジャーナリスト 田中 幾太郎)
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