■“焼失”したのは根本中堂と大講堂のみだった
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。第15回(4月19日放送)は朝倉・浅井連合軍との一大決戦である姉川大合戦が描かれた。そして、第16回(4月26日放送)はついに来た、タイトルは「覚悟の比叡山」。藤吉郎(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀)は浅井方の宮部継潤(ドンペイ)の調略を行っている一方で、信長(小栗旬)は、織田に従わないなら寺を焼き払えと光秀(要潤)に命じたのである。
いよいよやってきた、信長の見せ場比叡山の焼き討ち。時に1571(元亀2)年9月12日のことである。
さて、この比叡山焼き討ちのステレオタイプなイメージはこうである。
信長が焼き討ちを命じる→光秀がそれはまずいと説得→信長が応じず「比叡山、焼き払うべし‼」→僧侶から避難していた女子供まで皆殺し……。
しかし、研究によって現実の焼き討ちはこうではなかったということが明らかになっている。戦後になって、比叡山では発掘調査が本格的に実施された。その結果、明確に信長の比叡山焼き打ちで焼失が指摘できる建物は、根本中堂と大講堂のみで、ほかに見られる焦土層は、焼き討ち以前に廃絶していたものが大半だということが明らかになった。
■「全山大虐殺」はまったく過去のもの
こうした調査結果をもとにした兼康保明の「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」(『滋賀考古学論叢』第1集、1981年)では、「織田信長の人物像をはじめとする戦国時代の歴史観を再構築しなくてはならない時期が訪れつつある」としている。
信長研究の大家であった谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)では、殺戮が八王子山(別名:牛尾山、日吉大社の北側の位置に聳えるご神体のお山)を中心として行われたとしており、長らくイメージされていた「全山大虐殺」はまったく過去のものとして考えられるようになっている。
そもそも、信長が比叡山に怒り狂うまでには、それなりの経緯がある。
発端は信長による比叡山の寺領横領だった。つまり最初にケンカを売ったのは信長側である。これに怒った延暦寺は朝廷に訴え、朝廷から寺領を返せという綸旨まで出たが、信長は無視した。
こじれた関係の中で1570年、浅井・朝倉連合軍が比叡山に立て籠もった。信長は包囲したものの、四方から敵に囲まれる形になり、結局は天皇の調停で和睦するしかなかった。この「志賀の陣」の最中には弟・信治が浅井・朝倉勢に討たれている。
■無視、弟の死…比叡山への“個人的な恨み”
つまり信長にとっての比叡山は「宗教的権威への挑戦」でも「中世的秩序の打破」でもない。自分の警告を無視され、敵を匿われ、身内まで死なされた。個人的な恨みの相手だった。
目的も「焼き尽くすこと」ではなかった。比叡山は北陸路と東国路が交わる軍事的要衝である。浅井・朝倉が再びここに立て籠もれないよう、拠点としての機能を完全に潰すことが目的だった。
舐められてキレた。身内を殺された。軍事拠点として邪魔だった。この3つが重なって、1571年9月12日が来たというわけである。
そもそも、延暦寺はもとより信長陣営も「え? 焼き討ちって本気なのか」という感覚だったろう。
なにしろ、焼き討ち前まで信長は封鎖を行い何度も「焼くぞ‼」と脅しをかけている。一方の延暦寺は黄金を贈って攻撃中止を嘆願している。つまり信長が「舐めてんのか、やるんならやるぞ、オラァ」と肩をいからせ、一方の延暦寺はニヤニヤしながら「えろうすいません、これでなんとか~」とカネを握らせて話を丸く収めようとしている。
いわば、交渉が長引いている段階である。
■「コンスタンティノープル陥落」に似ている
この状況は、遡ること約120年前、1453年5月29日のビザンツ帝国のコンスタンティノープル陥落に近い。これは1000年あまりにわたって続いたビザンツ(東ローマ帝国)がオスマン帝国によって滅ぼされたという世界史上の大事件である。
ところが、一時期は大帝国だったビザンツだが衰退してからは、姑息な戦術を駆使していた。
そして、末期のビザンツ帝国には、得意の外交カードがあった。オスマン帝国の王位請求者オルハン王子をコンスタンティノープルに匿い、「いつでも解き放てるぞ」とメフメト2世への牽制に使うというやつである。要するに「お宅の身内のトラブルメーカー、うちで預かってますけど、何かご要望は?」という、いかにも老獪な帝国外交の残滓である。
これにメフメト2世がブチ切れた。
しかし誰も本気だとは思っていなかった。ビザンツ側は「いや~、やりすぎちゃったかな……いくら払えばいいです?」という感覚だった。
オスマン側の大宰相ハリル・チャンダルルも猛反対している。
メフメト2世以外、その場にいた全員が「まあしばらく包囲していたら、向こうが折れて幾らか払って終わりだろ」と思っていた。
■光秀は“信長の本気度”を見抜いていたか
信長と延暦寺の関係は、まさにこれだった。延暦寺は「また難癖をつけてきた権力者」への慣れた対処法で臨んだ。黄金を贈って、頭を下げて、うまく丸め込めばいい。これまでも何度もそうやってきた。
しかし両者には、周囲の常識が通じない共通点があった。メフメト2世は「千年間誰も落とせなかった。当然だ。俺がいなかったから」という厨二病全開な思春期(当時21歳)。
しかし‼ ここに一人だけ「あ、これはもうダメだ」と察していた男がいた。明智光秀である。
光秀は比叡山東麓の宇佐山城を任されていた。最前線で信長の動向を逐一把握していた男だ。そして能力が高いということは、見たくないものまで見えてしまうということでもある。
信長は本気だ。これは止まらない。
光秀にはそれが読めた。だから同僚たちに言って回ったはずだ。
■「焼き討ち前」に情報を伝えた光秀
返ってきたのはこんな反応だっただろう。
「ほう、新参者の割にはよく上様の心中を読めるものだな(笑)」
「まあまあ光秀殿、書物の読みすぎじゃないですか。戦場は理屈通りにはいきませんよ」
「光秀殿、上様が本気かどうかは俺が一番わかっとる。あそこは攻めん。攻めれんわ」
と、こんな感じに「光秀殿はまあ……頭はいいんだけどな。融通が利かんというか、なんというか」とばかりに、本気にされなかったのだろう。
こうなったら自分で動くしかない。光秀は焼き討ちが不可避と判断し、粛々と準備を始めた。焼き討ちの10日前、光秀は地元の土豪・和田秀純に書状を送っている。
この有名な文書である「仰木之事ハ是非共なてきりニ可仕候、頓而可為本意候」。つまり、仰木のことは是非とも皆殺しにする、すぐにそうなるだろう、とある。後世この一文だけを取り出して「光秀は積極的に虐殺を望んだ」と読む向きもあるが、この書状をよく読むと、同時に信長の出陣日程を正確に和田に伝えている。また8月2日に和田に送った書状では、芦浦観音寺に「18日に信長が動く」という事前通知していたこともわかる。
和田光生「比叡山焼き討ちと天正の復興 明智光秀の果たした役割」(『成安造形大学附属近江学研究所紀要』第11号、2021年)は、この書状を丁寧に読み解き、光秀が焼き討ちを前提として周辺の土豪を懐柔し、綿密な事前準備を進めていたと指摘している。
■比叡山には「正常性バイアス」が働いたか
さて、和田論文によれば、この和田秀純は六角の系譜という家伝を持つ南雄琴の在地土豪であった。前年の志賀の陣では浅井方として活動していた和田だが、光秀の懐柔工作に応じて1571(元亀2)年に光秀が宇佐山城(大津市南滋賀町)を任されると、織田につくことを決めた。そのための使者から書状を受け取った光秀は感涙したというから、よほど嬉しい出来事だったに違いない。そんな関係があってこそ、光秀は事前に「上様の焼き討ちは本気である」として細かく情報を伝えたのである。
これは単に伝えているわけではない。現地にネットワークを持つ和田に「もう、上様が止まらないので、さっさと避難するよう説得してくれ‼」というわけだ。和田もならばとさっそく動いたに違いない。
しかし、ここで問題になったのはおそらく正常性バイアスだ。
比叡山の側には、根拠のない自信があった。八王子山は日吉社のご神体の山である。いくら信長でも、ご神体の山に攻め込んでくるはずがない。攻め込んだら天下の笑いものだ。せいぜい麓の坂本の町あたりを焼いて、威圧するくらいだろう。ここ山上は安全だ。
しかも延暦寺という組織には、意思決定の構造上の問題があった。和田論文が指摘するように、延暦寺が物事を判断する場合、僉議、つまり衆議が普通の進め方で、重要な決断が執行部だけで行われることはなかった。
■「組織の民主主義」が逃げ遅れにつながったか
つまり「信長が本気で攻めてくる」という情報が入っても、山全体に危機感が共有されるまでには時間がかかる。しかも大多数は「まさか」と思っている。衆議をとれば「避難しよう」という声より「ここは安全だ」という声が勝つ。
組織の民主主義が、逃げ遅れを生んだのである。
さて、こうして行われた焼き討ちだが、山科言継の日記『言継卿記』の元亀2年9月12日条には、こう記されている。
織田弾正忠従暁天上坂下被破放火、次日吉社不残、山東塔、西塔、無童子不残放火、山乗悉討死云々、大宮辺八王子両所持之、数度軍有之、悉討取、講堂以下諸堂放火、僧俗男女三四千人伐捨、堅田等放火、仏法破滅、不可説々々々、王法可有如何事哉、大講堂、中堂、谷々伽藍不残一宇放火云云
織田信長(弾正忠)が夜明け前から坂本(比叡山の麓)へ攻め上り、放火して焼き払った。続いて日吉大社も残らず焼かれ、山の東塔・西塔、さらには延暦寺の稚児(童子)にいたるまで容赦なく放火された。
山の上では(抵抗した僧兵らが)ことごとく討死したという。大宮や八王子のあたりに立てこもって激しい戦闘が数回あったが、最後には全員が討ち取られた。講堂をはじめとする諸堂にも火が放たれ、僧侶、俗人、そして男女を問わず、3000~4000人が切り捨てられた。
■「後片付け」は光秀に丸投げ
さらに堅田(琵琶湖沿岸)などにも放火され、仏法はまさに破滅した。言葉に尽くせぬ、あまりにも無残な出来事である。これでは王法(国家の秩序や王権)はどうなってしまうのだろうか。大講堂、中堂、そして谷々の伽藍まで、一軒残らず焼き払われたとのことだ。
(山科言継『言継卿記 第四』国書刊行会、1915年)
おそらくは京の町から煙くらいは見えたこと。さらに、麓あたりで様子を見た人が話を伝えて、とんでもないことが起こっているという話は尾ひれがつきながら拡がったのだろう。
翌9月13日、信長は午前9時頃には馬廻り衆だけを連れてさっさと比叡山を出発、上洛して将軍・足利義昭に報告している。「やることやったんで」という感じだ。後片付けは全部、光秀に丸投げだった。
戦死者の処理、逃げた者の捜索、寺領の接収、周辺住民への対応。すべてが光秀の仕事になった。そして論功行賞として、光秀は志賀郡を与えられ、坂本城の築城を許された。織田家臣団で最初期の城持ち大名という破格の待遇である。
■“あの夜の比叡山”を見続けた光秀
しかし考えてみてほしい。与えられた土地は、自分が指揮した焼き討ちの現場そのものだ。坂本城の窓から毎日見えるのは、あの夜の比叡山である。
現代で言えば、自分が主導した不祥事の現場に「功績を認めたから子会社の社長にしてやる」と送り込まれたようなものだ。褒賞をもらったのか、現場に釘付けにされたのか、本人にもわからない。
光秀だけが、あの夜に比叡山で何が起きたかを正確に知っていた。誰も信じなかった警告、混乱の中で逃がした僧たち、そして自分が下した「なてきり」の命令。それをすべて抱えたまま、毎日比叡山が見える城に住み続けた。
本能寺の変まで、あと11年。光秀は毎日、あの夜の比叡山を窓から眺めながら、坂本城で執務を続けた。
----------
昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
----------
(ルポライター 昼間 たかし)

![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 昼夜兼用立体 ハーブ&ユーカリの香り 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q-T7qhTGL._SL500_.jpg)
![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 就寝立体タイプ 無香料 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51pV-1+GeGL._SL500_.jpg)







![NHKラジオ ラジオビジネス英語 2024年 9月号 [雑誌] (NHKテキスト)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Ku32P5LhL._SL500_.jpg)
