■信長vs比叡山、最前線の山城
第10回:宇佐山城(滋賀県大津市)
「豊臣兄弟!」(NHK)で姉川の戦いに勝利した織田信長(小栗旬)だったが、浅井・朝倉連合軍との争いはまだまだ続く。というより、むしろそこから争いが本格化していったと言っても過言ではない。
姉川の戦いが1570(元亀元)年6月、同年の9月から約3カ月間、「志賀の陣」が始まる。姉川は琵琶湖の東岸だったが、今度は同じ近江国でも西岸。浅井・朝倉と手を結んだ比叡山延暦寺(図表1①滋賀県大津市坂本本町4220)が、この争乱の中心となる。
対する織田家の最前線かつ最重要拠点が宇佐山城(図表1②滋賀県大津市宇佐山町)だ。延暦寺から南へ直線距離で5km弱。この城を任されたのが森(もり)可成(よしなり)。信長の小姓であり本能寺の変で共に死すことになる森蘭丸(成利)の父で、織田家でも有数の猛将として知られていた男だ。最前線でのその戦いぶりはいかなるものだったのか。宇佐山城の遺構を訪ねつつ探ってみたい。
■山そのものが険しい城塞
近江神宮の背後にそびえる宇佐山一帯の山頂が宇佐山城で、麓からの比高は180mとなかなかに険しい。
登山口から10分ほどで宇佐八幡宮。ここから先、登りが本格化する。
■森可成が防御を固めた宇佐山城
道はここまでの参道と一転し、神社の本殿裏を回りこんだ先から本格的な山道に。勾配も全く異なる。宇佐山城ははるか頭上で、どのぐらい先にあるのかさえ不明。急勾配なので、つづら折りに何度も向きを変えながら、ひたすら進む。道幅は徐々に狭くなってくる。崖っぷちのわずかにつけられた山道だけが頼り。
これらは全て自然地形のままと思われるが、どこに城を築くかも築城者の腕の見せどころ。というか、山城ではそれが最重要といってもよいかもしれない。急造される場合が多い陣城(戦場に築かれた前線基地)なら尚更。
■城内侵入直後に現れる巨大なワナ
宇佐八幡宮から20分ほど登ったところで、突然、樹間になにか自然にはない“人工物”が見えてくる。
這(は)うような急斜面を登っていった先の最後の防御壁となる石垣。見るからに攻め手を萎えさせる構造だ。かといって直登せず登山道をたどっていったところで、今度は大堀切が待ち構えている。
なんとか尾根まで登り切ったところを、南北の曲輪から挟撃。この大堀切が宇佐山城の最重要防衛ポイントだということは疑うべくもない。地形的な制約上、攻め手はほぼ、ここに登ってこざるを得ないが、そこに徹底して叩くワナが仕掛けられているのだ。
■これは空堀か? 水堀か?
本丸と三の丸はいずれも、尾根上とはいえ幅の広い平坦な曲輪。自然地形のままではなく、駐屯できる兵を増やすため、人工的に削られた結果だろう。本丸は現在、そのほぼすべてをアンテナ施設に占領されており、残念ながら城跡らしさは感じられない。
櫓跡と虎口のあちこちに、崩壊した巨石が転がっている。石積によって強化していた痕跡と思われる。櫓跡のさらに南側にも、しっかりと城らしき遺構がある。縄張図では「貯水」と記されている部分だ。
二の丸との間に掘られた明確な横堀と思われるのだが、「貯水」とはいったいなんなのだろう。雨水を貯めるタイプの水の手(城内の水源)か? 確かに両端が堤になっていて、水を溜めておくことはできそうだが……。
二の丸から逆方向に見ると、なおさら謎は深まる。人工的に削った切岸だけでなく、その下部に横堀を付随させれば、防御力が高まるのは確実。
■急峻な崖上に石垣を築く意味
縄張図を見ると、二の丸側の尾根道が大手道(城の正面ルート)とされているが、二の丸の南端はさらに落差のある切岸になっていた。脇から侵入する敵は大堀切で、大手道から登ってくる敵はこの切岸で撃退する。もうひとつの防衛上の最重要ポイントがここだろう。万が一、突破されたら、先ほどの切岸&横堀でなんとか食い止める戦略だったと思える。
続いて登山道から見えていた東側面の石垣へ。大堀切から回り込むように踏み跡はあるが道はない。登山道からはるか頭上に見上げる角度ではわからないが、近づいてみると実に細かな造作が見られる。ところどころ崩壊しているが、450年以上前のものとは思えないほど堅固だ。
■志賀の陣、信長は押され気味だった
崩壊部分について想像するに、見事な野面積(のづらづみ)の石垣は本丸の東側面を覆っていたと思われる。
最前線に築かれる陣城には、出撃拠点的な役割とともに、前線を維持するための防衛拠点的な役割もある。志賀の陣の際、実は信長の方が押され気味だった。いわゆる「信長包囲網」によって各地域で敵と対峙しており、比叡山方面だけに全力投入することは難しかったのだ。ただし、機を見て一気に攻め込むのは信長の得意とする戦略。宇佐山城は、その時が来るまで最前線を死守するための拠点と考えれば、このぬかりなさも納得だ。
■城下を見晴らすもうひとつの曲輪
最後に、大堀切の北側、三の丸も見てみよう。宇佐山城の中でこの曲輪が最も眺望がきく。
真正面に広がっている平地が坂本。琵琶湖岸には、細長く伸びた半島が3つ見えるが、中央の半島のたもとあたりには、のちに、明智光秀により坂本城が築かれる。
三の丸の北端には、櫓跡のような高まりが伸びている。本丸のそれは横に長いタイプだったが、こちらは直線的な尾根の突端で、規模も倍以上ある。その向こうはやはり崖っぷちで、北尾根から攻め込む敵をまず食い止める役割を担っていたのは明白だ。
■城主・森可成が討死にした後
冒頭に記した通り、「志賀の陣」は1570(元亀元)年の9月から約3カ月間にも及ぶ争乱だったが、その最初期の9月下旬に、「宇佐山城の戦い」が勃発する。比叡山の援軍として寄せてきた浅井・朝倉連合軍は約3万。対する可成率いる宇佐山城兵ほか織田軍は約1千。圧倒的不利な状況下にありながら、可成は籠城せず、敵が南下してくる街道へと討って出る。緒戦では千の首を取るなど活躍するも、徐々に押され敗戦。可成も討死してしまう。
この合戦では、信長の弟・信治も、救援に駆けつけ、わずか27歳で討たれている。
ただし、大将は散っても城は残った。城兵達の必死の抵抗により、数日後に信長の援軍が到達するまで宇佐山城を守り抜いた。いわば可成は身を挺して、主君・信長が浅井・朝倉軍に背後を突かれるのを防いだのだ。そこには可成による築城の恩恵が少なからずあったに違いない。これにより最前線は維持され、3カ月後の講和まで持ち堪えることになる。もっともその翌年、関係は悪化し「比叡山焼き討ち」となるわけだが。
■森蘭丸が信長に寵愛されたワケ
可成には6男3女、9人もの子がいた。長男は討死し、森家の家督は次男・長可(ながよし)が継ぐ。その弟で三男の森蘭丸(通称)は1565(永禄8)年の生まれなので、父・可成が討ち死にした時点でまだ4~5歳だった。1577(天正5)年、10代となった蘭丸は小姓として信長の側に仕えることになる。そして、本能寺の変で2人の弟ともに、信長に殉じた。
蘭丸が信長の寵愛を受けたことは世によく知られているが、信長はその姿に時折、忠臣・可成の面影を見ていたのではないだろうか。志賀の陣で命を賭して織田軍を守った、勇猛果敢な男の戦いぶりを。
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今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)
古城探訪家
1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。
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(古城探訪家 今泉 慎一)

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