日本の防衛政策に対して「右傾化」「軍国主義の復活」と声高に叫ぶ人は国内のみならず国外にも少なくない。ICU教授のスティーブン・R・ナギさん(政治学・国際関係学)は「事実に基づかない、歪んだ認知で日本のイメージを不当に貶めている存在に対して、政府はただちに対策をするべきだ」という――。

■日本の軍国主義化を叫ぶ人々の謎
カナダの公共放送局であるCBCニュースが最近、日本の防衛費増額を「軍事化(militarization)」と断じたが、これは報道機関として事実を踏まえておらず、客観性を欠いていると言わざるを得ない。グローバルなメディア環境全体を見渡すと、日本はこうした極めて歪んだレンズを通して見られるケースがしばしばある。
もちろん、日本に国内的・歴史的な課題がないわけではない。深刻な人口減少から、一部の保守政治家に見られる歴史修正主義的な言動まで、直視すべき問題は確かに存在する。しかし、国際社会を支配する言説は、客観的で建設的な批判を飛び越え、センセーショナルに誇張された戯画化へと安易に流れる傾向が強すぎるのだ。
インド太平洋地域の地政学的な現実を正確に理解するためには、日本を取り巻くこの「認知の歪み」の構造を解体しなければならない。これまで、日本の防衛力強化に対する批判的な言説は、中国やロシアといった権威主義的な敵対国による戦略的な情報戦や「世論戦」の産物として説明されることが多かった。確かに彼らがプロパガンダを展開している事実はある。しかし、事の本質はそこにはない。
真に問うべきは、なぜアメリカ、カナダ、欧州といった「友好国」のメディアや、日本文化を愛好するはずの「親日派」の知識人たちまでもが、日本の防衛政策の現実的な転換を「右傾化」や「軍国主義の復活」という恐ろしいレッテルで呼ぶのか、という点である。
この世界的な誤認の背後には、敵対国の工作よりもはるかに根深く、かつ厄介な「真犯人」が存在している。それは、欧米のジャーナリズムや学界に深く根付いたイデオロギー的な偏向と、日本の国内メディアとの間に形成された「共鳴室(エコーチェンバー)」の構造である。

■「軍事化」と「修正主義」の定義
この「真犯人」の正体を解剖する前に、国際的な議論の中で不用意に投げ交わされている用語、すなわち「軍事化」と「修正主義」の厳密な定義を確立しておく必要がある。
国際政治学の文脈において、「軍事化」とは、正当な国家防衛の必要性をはるかに超えた、攻撃的な軍事拡大に向けた構造的かつ社会的な移行を意味する。一方、「修正主義」とは、既存の国際秩序を転覆させることを目的とした戦略的姿勢を指す。
戦後日本の安全保障政策の全体的な軌跡を検証した場合、これらの概念はどちらも全く当てはまらない。日本は依然として平和憲法第9条の制約下にあり、自衛隊に対する厳格なシビリアン・コントロール(文民統制)を維持し、日米同盟の枠組みの中に深く組み込まれている。2022年の「国家安全保障戦略」で示された集団的自衛権の限定的な行使、反撃能力の保有、そして防衛費のGDP比2%への増額という最近の政策転換は、根本的に「受動的」なものである。
これらは、北朝鮮の核開発、中国の不透明な軍拡、そしてロシアによるウクライナへの不当な侵略によって特徴づけられる、急速に悪化する地域の安全保障環境に対する、計算された現実的な対応に過ぎない。
ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)のデータが示すように、日本の防衛姿勢は本質的に専守防衛かつ均衡のとれたものであり、拡張主義的な野心を追求するものではなく、現状維持を目的としている。それにもかかわらず、なぜ世界はこれを「軍事化」と呼ぶのだろうか。
■欧米メディアと学界に潜む「真犯人」
日本のイメージを不当に貶めている最大の「真犯人」は、欧米のメディア空間と学術エコシステムに深く根付いたイデオロギー的な偏向である。日本を取材する国際特派員や、日本研究を専門とする学者の多くは、中道左派的なパラダイムに浸った欧米の大学の教育から輩出されている。
これらの環境において、アジア研究は頻繁にクリティカル・セオリー(批判理論)やポストコロニアリズムのレンズを通して濾過される。
そこでは、現実的な国際関係論やハードな安全保障研究(軍事バランスや抑止力の分析など)よりも、権力力学、ジェンダーの不平等、マイノリティへの抑圧といった進歩的なテーマに対する批判が優先される。彼らは「親日派」であり、日本の伝統文化やポップカルチャー、洗練された都市生活を深く愛しているものの、その愛情は「平和で無害な日本」に向けられたものであり、国家として牙を持つ日本に対するものではない。
その結果、これらの卒業生がジャーナリズムの業界に入り、東京特派員として赴任すると、彼らは報道に影響を与える強力な制度的偏向を持ち込むことになる。彼らは社会階層を解体し、権力を批判する訓練は受けているが、インド太平洋の冷酷な安全保障の現実を分析する能力には欠けていることが多い。この学術的なパイプラインは、軍事力の強化が本質的かつ原則的な懐疑論をもって見られるフレームワークを作り出す。
日本がますます敵対的になる近隣諸国から自国を防衛するために必要な措置を講じるとき、これらの学術的環境によって条件付けられたジャーナリストは、客観的な地政学的必要性からではなく、国内の「右翼ナショナリズムの台頭」というレンズを通してそのような政策を直感的に枠付けてしまうのだ。彼らにとって、日本の防衛費増額は「抑止力の構築」ではなく、「平和主義からの危険な逸脱」として映るのである。
■国内メディアと海外特派員の共鳴
さらに深刻なのは、この欧米特派員の偏向が、日本国内の特定の言論空間と結びつくことで生み出される「情報のロンダリング」構造である。これが、友好国において日本批判の論陣が張られる典型的なメカニズムである。
東京に駐在する外国人記者の多くは、言語の壁や取材網の限界から、日本の国内メディア(特に政府に批判的なリベラル系紙)や、英語で発信力のある特定の進歩的知識人、NGOに情報源を依存する傾向がある。日本の国内メディアが政権批判の文脈で「軍拡の懸念」「右傾化の足音」といった記事を書くと、海外特派員はそれを「日本国内での客観的な懸念の声」として拾い上げ、英語圏の文脈に合わせて翻訳・増幅し、ニューヨーク・タイムズやBBC、CBCといった権威あるメディアで報じる。
すると今度は、日本のメディアが「海外メディアも日本の右傾化に警鐘を鳴らしている」と逆輸入して報じるのである。
この国内の政権批判と海外のイデオロギー的偏向が互いに引用し合う「共鳴室(エコーチェンバー)」こそが、日本の防衛正常化を「軍事化」というレッテルで固定化する真犯人なのだ。
戦略国際問題研究所(CSIS)のマイケル・グリーン博士や慶應義塾大学と地経学研究所の神保謙博士のような学者は、東京の防衛改革を推進する構造的な必要性を強調し、そうしたレッテルに対抗してきた。だが、残念ながら、彼らの現実主義的な分析は、前述の「共鳴室」が作り出すセンセーショナルなジャーナリズムにかき消されることが多い。この偏向は、日本の防衛姿勢の現実と、国際報道の警戒的なトーンとの間に持続的な断絶を生み出している。結果として、中国やロシアが展開する「日本脅威論」という偽情報キャンペーンの核心的な前提を、意図せずして友好国自らが正当化してしまっているのである。
■「エキゾチック・ジャパン」の呪縛
親日派の知識人やメディアの中には無意識に潜んでいる悪習がある。それは、昔も今も日本を極端で超異質な社会として描く傾向だ。日本は以下のような矛盾する絶対的な言葉で描写される。
時代遅れのサムライやカミカゼのステレオタイプを反映した「超暴力的」な国か、あるいは憲法9条を掲げる「超平和主義的」な国か。
アニメや奇妙なサブカルチャーのレンズを通した「超性的な」国か、あるいは論破された「独身症候群」の神話によって永続化される「無性的な」国か。
高速鉄道に見られるような「超効率的」な国か、あるいは企業官僚主義の中で絶望的に「停滞している」国か。
こうした偏りのある報道傾向は、世界中の読者が日本を「正常で普通の民主主義国家」として理解することを妨げている。

この認知の習慣には深い歴史的ルーツがあり、マサチューセッツ工科大学(MIT)のジョン・W・ダワー博士によって見事に記録されている。彼の1986年の画期的な研究『容赦なき戦争:太平洋戦争における人種と権力(War Without Mercy)』の中で、ダワーは米国と日本の双方がいかに悪意のある人種的イデオロギーを利用して互いを非人間化したかを詳述している。戦争は終わったが、日本人を異質な「他者」として見る根本的な認知の習慣は残存した。
日本を風変わりな、あるいは異質な社会として扱うメディアの執拗な枠付けは、ダワーが特定した人種的な他者化の直接的な子孫である。
欧米の知識人にとって、日本は常に「特殊な国」でなければならない。だからこそ、日本が他国と同じように地政学的な脅威に対して合理的な防衛政策をとろうとすると、それを「普通の国の普通の政策」として受け入れることができず、「あの恐ろしいサムライの国が再び牙を剥いた」という極端な戯画化へと走ってしまうのである。頭の中はいまだサムライ・フジヤマ・ゲイシャのままなのかもしれない。
■認知の歪みを打破する5つの処方箋
この多層的な誤認を克服するには、協調的かつ構造的な対応が必要である。21世紀の危険な地政学的荒波を乗り切るためには、以下の5つの実行可能な政策転換を通じて、戦略的、イデオロギー的、習慣的なレベルの問題に対処し、日本を取り巻く認知の歪みの構造を解体しなければならない。
第一に、概念の厳密な定義と適用を主張しなければならない。日本の政策立案者やアナリストは、「軍事化」や「修正主義」といった用語を厳密に定義し、友好国のメディアであっても、均衡のとれた防衛正常化を説明するためにこれらの言葉を怠惰に使用する場合には、毅然として反論しなければならない。
第二に、他の先進民主主義諸国との比較分析を実施し、英語で積極的に公表しなければならない。
日本の防衛費がNATO加盟国やオーストラリア、韓国などの地域のパートナーの防衛予算の文脈に置かれたとき、特異な「日本の再軍備」という物語はすぐに崩れ去る。日本国際問題研究所(JIIA)などの機関は、言説を実証的な現実に根付かせるために、これらの比較指標を率先して発表すべきである。
第三に、メディア報道におけるイデオロギー的な偏向に対抗するため、知的多様性を積極的に促進しなければならない。日本政府やシンクタンクは、海外メディアの特派員に対して、国内のイデオロギー論争だけでなく、地域の脅威評価に基づくハードな安全保障の現実をブリーフィングする機会を大幅に増やす必要がある。情報のロンダリングを防ぐためには、日本側から直接、一次情報を英語で提供するルートを太くすることが不可欠だ。
第四に、エコーチェンバー現象を可視化し、解体することである。国内の極端な批判的言説がどのように海外メディアに引用され、それが再び国内に還流しているかというメカニズムを学術的に分析し、公表することで、この不健全なジャーナリズムのサイクルに警鐘を鳴らすことができる。
第五に、真の文化外交の推進と並行して、グローバルなメディア・リテラシーを向上させなければならない。パブリック・ディプロマシーの取り組みは、ポップカルチャーの「奇妙な日本(Weird Japan)」のステレオタイプを超えて、日本人の日常的で共感できる人間性を浮き彫りにする文学、ドキュメンタリー映画制作、学術交流に資金を提供し、それを増幅させるべきである。日本の現代の市民生活、経済的革新、そしてありふれた社会的課題を探求する物語を育成することで、非人間化の歴史的遺産を解体することができる。
■「三人成虎」の教訓を胸に
日本は、インド太平洋における民主主義の安定の要(リンチピン)である。国際社会はもはや、イデオロギー的な偏向や時代遅れの文化的な戯画化という歪んだレンズを通して日本を見る余裕はない。

中国の有名な故事成語に「三人成虎(三人が虎を成す)」という言葉がある。これは、市街地に虎が徘徊しているというような嘘であっても、十分な数の人々によって繰り返されれば、大衆は最終的にそれを真実として受け入れてしまうという警告である。あまりにも長い間、友好国のメディアや偏見を持った評論家たちは、日本の平和的な防衛正常化から架空の「虎」を作り出すことを許されてきた。
今こそ、これらの歪曲の繰り返しを止め、イデオロギー的な共鳴室が世界の現実理解を決定するのを許すのではなく、日本の民主的な軌跡の現実が物語を決定するように確実にする時である。絶対的な真実と客観的データに基づく冷静な現実主義こそが、この「架空の虎」を退治する唯一の武器なのである。

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スティーブン・R・ナギ
国際基督教大学 政治学・国際関係学教授

東京の国際基督教大学(ICU)で政治・国際関係学教授を務め、日本国際問題研究所(JIIA)客員研究員を兼任。近刊予定の著書は『米中戦略的競争を乗り切る:適応型ミドルパワーとしての日本』(仮題)。

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(国際基督教大学 政治学・国際関係学教授 スティーブン・R・ナギ)
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