■「無能な最後の将軍」のイメージが一新
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、順調に前半のクライマックスといえる本能寺の変に向けて、歩みを進めている。第16回(4月26日放送)では、織田信長(小栗旬)に命じられた明智光秀(要潤)が、藤吉郎(池松壮亮)とともに比叡山の焼き討ちを実行。今回は、信長の命令を守りながらも後悔を口にする光秀像が描かれた。
この第16回。さまざまな見せ場があったがもっとも存在感を発揮していたのは足利義昭(尾上右近)だと思う。なにしろ、信長の家臣でもあり、自身の家臣でもある光秀に「おまえは織田の中に深く入り込み、毒となれ」と命じていたのに一転、比叡山を焼き討ちした光秀を「いつからそのような外道に成り下がった‼」と叱責。そして「わしのもとに戻ってまいれ」とまで言い出したのである。
不本意とはいえ、城持ち大名になった光秀に感慨深げな一方で、信長に対しては怒りをあらわにする義昭。これまで、多くの作品で描かれた無能な最後の将軍というイメージが一新されている。
義昭は衰退した室町幕府の最後の将軍……すなわち、終止符を打つ役割を果たしたがために、幕府滅亡に導いた暗君のように扱われてきた。しかし、そもそも末期の歴代将軍たちのどうしようもなさが、あまり知られていなかっただけではないか。
■“剣豪将軍”の13代義輝はひどい
室町幕府の10代以降の将軍を、ざっくり説明すると、こうだ。
10代・義稙は細川氏と対立して将軍の座を二度追われ、最後は阿波で客死。11代・義澄は義稙に将軍位をそのまま奪われて失脚死。12代・義晴は三好・細川の抗争に翻弄されて京都を何度も追われ、流転の末に死亡。14代・義栄に至っては、京都にすら足を踏み入れることができず、摂津の普門寺で将軍宣下を受けたまま病死している。
特に13代・義輝はひどい。
「剣豪将軍」というブランドイメージが強すぎて実態がぼやけているが、冷静に考えると、ひどい。大名に翻弄されて京都を何度も追われ、ようやく戻ってきたと思ったら暗殺される。しかも包囲してきたのは三好三人衆と松永久通の大軍である。それを相手にそこで名刀を並べて大立ち回りしたという逸話は熱いけど、要するに「逃げ場がなかった」だけの話だ。
現代の企業に置き換えれば、経営危機に陥った老舗企業の社長が、銀行や取引先に大勢で乗り込まれた末に、応接室で一人で暴れて死んだ、というだけの話である。カッコよく脚色されてはいるが、経営者としては完全に詰んでいる。
しかも、殺された理由も、三好長慶が死んだあと将軍権威の回復に動いたら逆に三好三人衆を刺激したというもの。タイミングも手順も全部裏目に出ている。
■義昭には“何もない”
つまり「剣は強かったが、政治家としてはセンスがなさすぎて、最悪のタイミングで最悪の死に方をした将軍」それが義輝の実態である。
そう考えると、義昭がいかに傑出していたかがわかる。義昭の初期状態を、光栄(現・コーエーテクモゲームス)のシミュレーションゲーム『信長の野望』に置き換えて考えてみると、よくわかる。
『信長の野望』には、土佐一条氏とか、どう見ても詰んでいる弱小勢力がいくつも登場する。しかし、それでも、彼らには最低限「本拠地となる都市が一個」ある。兵力も資金も、ゲーム開始時には初期配分される。
義昭にはそれすらない。
本拠地:なし。兵力:ゼロ。資金:ゼロ。
それでも一応、将軍家の生まれではある。第12代将軍・足利義晴の次男、母は近衛尚通の娘・慶寿院という出自は史料でも確認できる(久野雅司『足利義昭と織田信長 傀儡政権の虚像』戒光祥出版、2017年)。
しかし、義昭のライフプランに「将軍」など、最初から存在していなかった。
■僧侶として生きる道が“兄死亡”で一転
足利将軍家には、家督相続者以外の子息は出家させるという慣習があった。義昭はその慣習通り、6歳にして法名・覚慶として出家。興福寺の一乗院門跡となり、いずれは興福寺の別当に就くのが予定されていたライフプランだった。要するに、朝廷とも繋がりの深い、伝統ある奈良のお寺で修行して、順当に偉いお坊さんになっていく人生のはずだった。
そのライフプランは兄・義輝が殺されたことで完全に狂う。しかも義昭自身も巻き込まれ、興福寺に幽閉・監視される羽目になる。
しかも脱出の経緯がさらに混乱に拍車をかける。細川藤孝の画策により、番兵に酒を飲ませて酔わせ、義昭を逃がしたとされている。つまり義昭本人が脱出を計画したというより、周囲が「この人を将軍にしたい」という都合で動いて、気づいたら逃がされていたのだ(奥野高広『足利義昭』吉川弘文館、1990年)。
本人の心境を想像するとこうなる。
「え、兄上が殺された……俺も捕まった……なんで? 俺、お坊さんなんですけど……え、逃げるの? どこに? 近江? 将軍? 俺が???」
確かに興福寺は武装勢力だし、一乗院は朝廷とも関係が深い、宗教エリートの養成機関でもあった。しかしそれでも、ある日突然「お前が次の将軍だ」といわれた混乱は、想像に難くない。
■脱出した途端に“覚醒”
こうして脱出し、流転した義昭を迎え入れたのが越前の朝倉義景だった。ただし義景には最初から上洛する気などなく、義昭を手元に置いて外交カードとして使うつもりだったに過ぎない。義昭はここでも「都合よく使われる看板」になりかけていた。
しかし、である。ここで義昭は急転直下に、将軍を目指す男として覚醒していた。
20年近く寺で生きてきた男が、脱出した途端に「そうか、兄上が亡くなったのだから、俺が将軍にならねばなるまい」と、いきなり覚醒しているのだ。しかも迷いがない。逃亡中である。拠点もない。兵もない。金もない。なのに手紙を書いて諸大名を煽るのだ。
周囲はびっくりである。
特に義景は驚いただろう。朝倉氏としては、将軍候補を手元に置いておけば外交カードになる、くらいの打算で引き受けたに過ぎない。
一方、完全にノリノリだったのが側近の細川藤孝だ。この時期を境に藤孝の発給文書の規模が急拡大しており(谷橋啓太「細川藤孝の動向について」『大正大学大学院研究論集』第40号、2016年)、義昭の手紙外交が一斉に動き出したことが裏付けられる。
■義昭を覚醒させた武将「細川藤孝」
そもそも、義昭を「覚醒」させた原因である細川藤孝とは、いったい何者なのか。
戦国時代を通じて「お前はいったい何なんだ」と問い詰めたくなる男が何人かいるが、藤孝はその筆頭格である。
藤孝はもともと13代将軍・足利義輝の側近中の側近だった。ところが永禄の変で義輝が三好三人衆に襲われた際、藤孝は御所に駆けつけている。しかし着いたときにはすでに義輝は討たれた後だった。
さて、忠臣ならばここで殉死するか、仇討ちを誓って慟哭するところだ。
藤孝はそうしなかった。「主君が死んだ。ならば次の将軍を立てるしかない」そう判断した藤孝は即座に動き出し、義昭を見事に救出してみせた。
主君が死んだその日に、もう次の手を打っている。決して忠臣ではない。サバイバル能力に特化した戦国最強の「生き残り屋」である。
なにせ、義輝が死ねば義昭を擁立。義昭が追放されれば信長につき、最後は江戸幕府でも大名として続くことに成功し、現代に至るまで細川家を伝える布石を打ったのだから。忠誠心ではない。組織への奉仕でもない。ただ純粋に、次の時代を読む能力だけで生き延びたのだから。
■脱出後の御内書から見えた“大物感”
問題は、義昭が毎晩寝床で「もしも兄貴になにかあって、俺が将軍になったら……」と妄想、いや脳内トレーニングをしていたかのごとく、将軍後継者としての振る舞いをするようになったことだ。
なにせ、義昭は最初の御内書からしてこうである。
こんど京都の様躰、是非なき次第に候。それについて、和田に至り取退き候。進退の儀、万端まかせおき候間、旗鼓を散じ候やう、人魂偏に頼み入り候。委細の段、大覚寺門跡へ申し候間、演説あるべく候。穴賢く。
(永禄八年)八月五日
上杉弾正少弼殿
(花押)
(桑田忠親『戦国武将の手紙』人物往来社、1962年)
要約すると「京都は大変なことになりました。とりあえず和田のところに逃げてきました。今後はすべてお任せしますので、旗を掲げて動いてください。詳しくは大覚寺門跡が説明します」である。
注目すべきは文体だ。脱出からわずか一週間、まだ「覚慶」というお坊さんの状態で、この手紙はすでに完璧な将軍の御内書の書式で書かれている。藤孝あたりが添削をしているにしても、早くも「私が次の将軍を目指すので、なんとかよろしく」とへりくだりつつも「お前、動けよ」と依頼をしているわけである。しかも、あれこれ頼むみたいなことを書かずに「後は任せた‼」と、謎の大物感がある。
■“盤石の態勢ぶり”を平然と書いている
この大物感がさらに冴えているのは、京を追放されてから3カ月後に発給した御内書だ。
当国に座を移すについて、各(おのおの)礼儀、祝着の通り、輝元に対し申遣わし候。然らば、入洛の儀、東北国手合せを請け、形の如く到来。いよいよ別儀あるべからず候。なかんづく、大坂堅固の内、相催すべきなり。西国諸士吉田に至り集会せしめ、来春義兵の行肝要。なほ、昭光・昭秀申すべく候なり。
(天正元年)十月十日(桑田忠親『戦国武将の手紙』人物往来社、1962年)
要約すると「こちらに拠点を移すにあたってのご挨拶、ありがとうございます。さて、上洛の件ですが、東北(京都から見て東北のこと)の諸国との連携もすでに整ってきており、間違いなく実現します。とりわけ大坂(本願寺)が持ちこたえている今のうちに兵を集めるべきです。来春に義兵を挙げることが肝要です」というものだ。
まったく、追放されて落ちぶれたようには見えない。興福寺を脱出した時と同じゼロスタートとなっているのに「東北との連携は整った」「上洛は間違いない」「来春に義兵決行頼むぞ‼」と、まるで盤石の態勢から発令するかのような文面を平然と書いているのだ。
■ポジションを即理解、役割を完璧にこなした男
誤解してはならない。義昭は現状認識ができなくなっているわけではない。この男は、与えられたポジションを瞬時に理解して、その役割を完璧にこなす能力に特化していたのである。
現代のビジネスの場でも、こういう人物がいる。今日は自分が主役として場を引っ張り、明日は後輩を立てるために一歩引く。上司の前では従順に、取引先の前では堂々と。「立ち位置」をフレキシブルに切り替えられる人間だ。
義昭はまさにそれだった。自分が将軍を狙う候補者となれば、脱出一週間後でも完璧な将軍書式で「任せた」と書く。追放された将軍としての立ち位置になれば、追放3カ月後でも「来春義兵決行」と堂々と書く。どちらの局面でも、そのポジションに求められる振る舞いを迷わず実行している。
だからこそ、晩年の義昭の身の処し方も腑に落ちる。秀吉に召されると、義昭は平然と出仕した。長年の宿敵・信長の後継者である秀吉のもとに、である。かつての将軍が、である。傍から見れば屈辱以外の何物でもない。ところが義昭には、おそらくそういう感覚がなかった。
本人の心境を想像するとこうなる。
「あ、将軍役は終わりましたか。次は御伽衆ですね、わかりました」
いや、もしかすると心の中ではこう思っていたかもしれない。
「別当になるかと思ったら将軍をやって、今度は、猿にへーこらして1万石もらってるんだぜ。俺ってすごいだろ……なあ藤孝」
なんとも、義昭からは学ぶべき歴史の教訓が多い。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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