高市首相の台湾有事をめぐる発言を受け、中国政府が自国民に日本への渡航自粛を呼びかけた。中国人客を失えば日本の観光業は沈むのではとの懸念をよそに、2025年の訪日客数は過去最多の4270万人、旅行消費額も過去最高の約9.5兆円を記録した。
渡航自粛要請が図らずも日本の脱中国依存を加速させた皮肉な結末を、海外メディアが報じている――。
■「渡航自粛要請」でも訪日客増
高市早苗首相による昨年11月の「存立危機事態」発言に、中国政府は激しく反発。日本への経済的な報復を実質的に意味する「渡航自粛要請」を自国民に対して発した。一時は観光業を中心とする日本経済に大きな影響を及ぼすとも報じられたが、実際にはほとんど日本に打撃を与えることはなかったようだ。
2025年11月、ブルームバーグは旅行データ専門の調査会社チャイナ・トレーディング・デスクによる予測として、日本の観光業に暗い影響が出るとの情報を伝えていた。
たしかに中国からの旅行客に限れば、減少は実際に起きていた。同データによると、中国政府による自国民への渡航自粛要請を受け、中国からの訪日旅行予約の約30%がキャンセルされている。
同社のスブラマニア・バットCEOは、年末までの消費損失額が、最大12億ドル(約1900億円。4月30日現在のレート、1ドル159.54円で換算、以下同)に達すると試算していた。
バット氏はさらに踏み込み、中国人旅行者が2026年まで来日を控えれば、累積損失は最大90億ドル(約1兆4000億円)に膨らむとも述べている。
だが実際に数字が出揃ってみると、この見通しは覆った。中国客の減少分を補う形で、他国からの訪日客が伸びたのだ。

2025年の訪日外国人数は、過去最多の4270万人。前年の3690万人を大幅に上回ったと、米旅行業界専門誌のスキフトが今年1月に報じた。
勢いは今年に入っても衰えなかった。ブルームバーグによると、中国人観光客の低迷が続くなかでも、2月の世界からの訪日外客数(観光・ビジネス等で日本を訪れた外国人数)は前年比6.4%増に転じた。経済的制裁として渡航自粛要請を放った中国だが、結果として目標を達成することはなかった。
■たしかに中国客は半減したが……
実際のところ、日本の観光産業における中国市場の存在感は無視できない。
ブルームバーグによると自粛要請以前、訪日外国人のおよそ4人に1人が中国人旅行者だった。7~9月期には、中国人客がインバウンド消費総額の約27%を占めていた。日本の観光産業は、インバウンド収入の4分の1超が一国の政治判断ひとつで揺らぐという、いわば依存の状態にあった。
今年に入ると早くも、渡航自粛要請の影響が数字に表れ始めた。
米NBCニュース部門のNBCニュースは、日本政府観光局が発表した今年1月の訪日外客数データをもとに、前年同月比4.9%減の360万人にとどまったと報じている。前年実績を下回ったのは、コロナ禍の入国制限で訪日客全体がほぼ途絶えていた2022年1月以来、実に4年ぶりのことだ。

パンデミック後、インバウンド需要は右肩上がりで伸び続けてきた。だが渡航自粛要請からわずか数カ月で、訪日客ははっきりと減少に転じた。
全体を押し下げた主因は、中国人客の急減だ。中国からの訪日客は、前年同月比61%減の38万5300人にまで落ち込んだ。
■韓国・台湾・アメリカから訪日客続々
ただし、中国以外の市場はなお底堅かった。
人数で真っ先に目を引くのが韓国だ。NBCニュースによると、1月の韓国からの訪日客は前年比22%増の118万人に達し、単月として過去最多を更新した。これまで月間110万人を超えた国や地域はなかった。
台湾も17%増の69万4500人、アメリカは14%増の20万7800人。主要市場からの訪日客は概ね二桁の伸びを見せた。
こうして中国からの旅行客の減少は、近隣アジア諸国からの訪日客の増加が補った。一方で消費の「額」を底上げしたのは、欧米豪の旅行者の増加だ。
滞在が長く、一人当たりの支出も大きい長距離客が増え、全体の消費単価を押し上げた。
スキフトによると、2025年通年で欧州・アメリカ・オーストラリアからの訪日客は合計22%増加。訪日外国人全体の旅行消費額は過去最高の9.5兆円に達した。自粛要請の波乱があったものの、結果としてはこのような記録が樹立されたことになる。
こうしたマクロでの変化は、現場の事業者の肌感覚とも一致するという。東京・浅草で着物レンタル店を営む男性は、中国人客の減少ははっきり感じていると、NBCニュースの取材に応じた。
それでも、「タイやシンガポールなどからのお客様がいらっしゃるので、全体的な売上はそれほど変わっていません」と語る。客の顔ぶれは入れ替わったが、売上という観点では影響がなかった形だ。
■中国人経営の民泊から上がる悲鳴
反面、明確に痛みを感じた観光業界関係者もいる。民泊経営者だ。
大阪中心部で約80の民泊を運営するリン氏にとって、自粛要請後の昨年11月末は、事業崩壊の序章であったという。
2025年末までにキャンセルされた予約は、実に600件超。
消えた中国人ゲストは、頭数で1000人以上に上る。リン氏はブルームバーグに対し、「不動産や旅行業界に身を置く知人は、全員苦しんでいる」と語った。
日本では近年、民泊の騒音やゴミ、住宅街への観光客の流入により、各地で住民から困惑の声が聞かれた。リン氏のビジネスが壊滅的被害を受ける一方で、住民たちは長年待ち望んだ静けさを取り戻している。
MBSニュースの報道によると、大阪市の特区民泊(国家戦略特区において旅館業法の特例で行う民泊)の44.7%が中国系の個人や企業による運営との調査結果がある。中国政府による渡航自粛要請を受け、日本で事業を行う中国人が割を食う皮肉な状況が生まれた。
地域別では、関西空港の位置する大阪で影響が大きかったようだ。ホテル業界も余波を受けており、大阪観光局によると、なんばを中心に一部ホテルのキャンセル率は50~70%に跳ね上がっていた。
だが、立場を変えれば風景は一変する。一部では、混雑が解消されたことで、余裕を持って観光地本来の美しさを味わえるようになったとの声が上がる。
東京に1年以上暮らすマレーシア人のカリン・ノーディンさん(33)は米ビジネスニュース専門局のCNBCに対し、東京のほか草津や蔵王といった温泉地でも中国人客の姿が減り、ホテル料金も落ち着いてきたと語った。宿泊料金はそれまで、中国本土の祝日に合わせるようにして急騰していた。

■日本が持つ「親しみやすい」という武器
中国人客を失っても、壊滅的な打撃を受けなかったのはなぜか。日本の親しみやすいイメージに起因するとの分析がある。
豪ジェームズ・クック大学のホスピタリティ・観光マネジメント上級講師、ジルミヤ・カンブル氏はCNBCに宛てたメッセージで、日本が近隣諸国からの観光客の呼び込みに成功してきた要因として、近距離国際線の路線網が充実していること、円安に傾いていること、そして「近い・文化的に親しみやすい・安全」というイメージが定着していることを挙げた。
もともと多くの地域から訪問者を呼び込んでいる日本は、どこか一つの市場に完全に頼りきっているわけではない。同氏はこの多様さが、衝撃を吸収する緩衝材になったとみる。
それを裏づけるように、訪日客はパンデミック前をすでに約34%上回っている。マスターカードのアジア太平洋担当チーフエコノミスト、デイビッド・マン氏によれば、円安の追い風で一人当たりの消費額が膨らみ、日本は訪問者数の伸びを上回るペースで観光収入を拡大させている。
CNBCはイギリスの調査会社オックスフォード・エコノミクスの分析を取りあげ、円安が続く限り全体的な訪日客数は堅調に推移するとの見通しを伝えている。ただし、宿泊施設不足を背景に、現状水準からのさらなる増加は見込みにくいとも付け加えている。
こうした回復力を、CNBCはカンブル氏の言葉を引いて、「(中国客減は)相当なものだが、壊滅的ではない」(Significant, but not catastrophic)と見出しに据えた。
■百貨店で起きた変化
国内の各店舗は、早くも訪問元の変化に順応している。最も鮮明に転換を遂げた例の一つが、百貨店業界だった。

アジア小売業界専門メディアのインサイド・リテール・アジアによると、高島屋の経営陣は今年1月の時点で、台湾をめぐる日中の緊張により、インバウンド消費が打撃を受けていると認めた。
大丸・松坂屋を展開するJ・フロントリテイリングも無縁ではなかった。2月には大半の店舗で来店客数が落ち込み、グループ全体の売上もわずかながら前年を下回った。
ただし、中国客で混雑しなくなった店内は、日本人にとって買い回りやすい空間となった。同紙は百貨店各社の経営陣による見解として、中国客の減少分は国内顧客の堅調な消費で補われていると伝えている。
実際、経済産業省の月次販売データを見ても、百貨店全体の売上は1~2月、前年比で一桁台前半の増収を維持している。
■高島屋と三越伊勢丹のV字回復
そして3月、文字通り春の訪れとともに、業績は跳ね上がった。
高島屋の月次実績をインサイド・リテール・アジアが伝えている。全国13店舗合計で、免税売上高は前年同月比6.9%増、総売上高は同7.8%増。春節需要を取りこぼした2月の不振から、わずか1カ月での反転だ。
東京の2店舗が際立つ。日本橋店は前年同月比18.9%増と突出し、新宿店も同8.0%増。京都店9.3%増、大阪店7.7%増、横浜店7.3%増と、東京以外の店舗も軒並み好調だった。
三越伊勢丹も例外ではなかった。同紙によると、3月は全店合計で前年比5.5%増を記録している。
けん引したのは高島屋と同じく日本橋・新宿に構える基幹2店舗だ。地方にはばらつきがあったが、基幹の2店が全体を底上げしたという。百貨店大手2社がそろって前年超えという、鮮明なV字回復だ。
渡航自粛要請からわずか数カ月で、なぜ回復に至ることができたのか。CNBCは、各社の客層転換戦略が功を奏したと分析する。
渡航自粛要請が発表されるや否や、百貨店各社はASEAN向けの販促を強化すると同時に、欧米や東南アジアからの旅行者に響く品揃えへの切り替えを進めた。各社は中国客に頼らない収益基盤を築き、その成果が3月の数字に表れた格好だ。
■「客層の入れ替え」は地方にも波及
客層が入れ替わったのは、何も百貨店に限らない。主立った観光地のそこここで、風景は一変した。
2月に広島を訪れたというシンガポールの大学生、チェリル・ングさんは、広島平和記念資料館の光景に目を見張った。「館内の3分の2くらいが西洋人だった」と、CNBCに語っている。
オックスフォード・エコノミクスも2月27日付レポートで同じく、広島の歴史的観光地に多くのアメリカ人・オーストラリア人・ヨーロッパ人が足を運んでいると指摘する。
同レポートはまた、例えば福島県には台湾人が訪れ、愛媛県のゴルフ場・温泉には韓国人が足を運ぶようになるなど、地域ごとに異なる国の旅行者が集まるようになっていると動向を伝える。
一部の地方でも、中国客への依存から急速に脱する動きがある。ブルームバーグによると、岐阜県の中国人宿泊客の割合は2019年の41%から、現在はわずか10%に落ち込んだ。静岡県でも71%から45%に低下している。
日本総合研究所の高坂晶子主任研究員は、今回の急減により、かえって観光の多様化が加速しうるとみる。同氏はブルームバーグに、「各地域が市場での立ち位置をどう打ち出すかという面で、さらなる転換を促す」との見通しを述べた。
一時的な減少分の穴埋めという狭い視点を超え、将来の土台づくりを見据えた戦略が進む。
■「渡航自粛」で日本の活路が見えた
中国客の減少は、たしかに一時的には痛手ではあった。ただし、今回の危機を通じ、日本政府が自力では果たせなかった戦略上のシフトチェンジが一気に実現しようとしている。
政府は長期目標として、2030年までに訪日客6000万人、旅行消費額15兆円を掲げてきた。ブルームバーグが取りあげたように、訪日客一人当たりの消費額9%増や地方宿泊数の1億3000万人泊超への2倍以上の拡大も目標に据える。また、観光公害の是正にも取り組むとしている。
今回の訪問者層の変化を受け、訪問元が多様化した。さらに、訪問者数としても過去最高を記録した昨年の実績をみるに、特定の国への依存軽減を達成したと言える。また、欧米諸国からの長期滞在・高額消費層が落ち着いて過ごせる環境が整ったことで、消費額向上への布石も整った。
訪問者の多様化、消費単価の上昇、地方への分散、そしてデパートなど小売各社の客層転換。ここまで見てきたこれらの変化は、政府の長期目標とも重なる。
中国は日本への制裁を意図して渡航自粛要請を設けたが、図らずも日本の観光業に良い方向に作用する格好となった。

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青葉 やまと(あおば・やまと)

フリーライター・翻訳者

1982年生まれ。関西学院大学を卒業後、都内IT企業でエンジニアとして活動。6年間の業界経験ののち、2010年から文筆業に転身。技術知識を生かした技術翻訳ほか、IT・国際情勢などニュース記事の執筆を手がける。ウェブサイト『ニューズウィーク日本版』などで執筆中。

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(フリーライター・翻訳者 青葉 やまと)
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