クイズ番組はいつから始まったのか。「競技クイズ界最強の男」の異名を持つクイズプレイヤー・徳久倫康さんは「戦後、GHQの思想改革の一環として日本にもたらされたのが、アメリカ的価値観を体現する『クイズ番組』だった」という――。

※本稿は、徳久倫康『クイズの戦後史』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。出典はウェブ用に最小限にとどめています。
■終戦からクイズ番組の誕生まで
1945年8月15日の正午、昭和天皇がラジオを通じて国民に対し、ポツダム宣言の受諾を宣言しました。いわゆる玉音放送です。これをもって日本では8月15日を「終戦記念日」と位置づけています。
諸外国では降伏文書の調印が行われた9月2日を終戦の日とするのが一般的ですが、政治的な手続きはさておき、この時点で多くの日本人にとって「戦争は終わった」と言っていいでしょう。
ただしこの時点では、日本が敗戦国としてどのような処遇を受けるのかについて、市民は十分な情報を持ちえていませんでした。
一般市民が無知だったというわけではなく、軍の上層部や政府の要人もまた多くが、降伏後について十分理解できていなかったとされています。
■神奈川県民は特に怯えていた
ポツダム宣言に記された「無条件降伏」は、それまでほとんど実例のないもので、その解釈はさまざまでした。
日本政府は都合よく「ポツダム宣言の条項を日本側で履行しさえすれば、連合軍は直ちに日本から引き揚げ」、統治形態は間接統治になると見込んでいました。
とはいえ交戦下の日本政府は、「無条件降伏すれば男は奴隷にされ女は暴行される」といって不安を煽ってもいました。
そのため占領軍が最初に上陸する見込みの神奈川県では人々の不安がとくに高まり、終戦後すぐに県庁の女性職員に3カ月分の給与が渡され、疎開するよう促した記録が残っています。

情報不足によって極端な楽観と極端な悲観が入り交じる一方、多くの市民は天皇の言葉を静かに受け入れ、過度の混乱をせずにすごしていたともいいます。GHQが進駐し、情報統制を敷く直前、日本はこのような社会情勢でした。
■GHQによる日本への「メディア指導」
GHQによる情報統制は、「表の機関」であるCIE(民間情報教育局)と、「非公然の機関」であるCCD(民間検閲局)により担われていました。
歴史学者の山本武利によれば、CCDはその場その場の言説のチェックを行い、CIEはより長期的に、日本人の思想を方向づける役割を持っていました。
CIEの設立指令には「教育制度改革、宗教改革、メディア指導、世論調査の勧告と指導、日本国民への情報政策」が挙げられていました。「メディア指導」の文脈における主要な取り組みに、ラジオ番組「真相はかうだ」の制作があります。
この番組はNHKの施設やスタッフを使って制作され、1945年12月から翌年の2月にかけて全10回が放送されました。
初回放送では満洲事変が日本軍の自作自演であったことが紹介されるなど、日本軍がいかに国民を裏切り、進路を誤ってきたかが取り上げられました。CIEは企画のねらいを以下のように記しています。
日本人に戦争への道筋を説明し、実際に戦争中に何が起こったのかを知らしめること。そして国民を窮地に陥らせ敗戦に導いた軍国主義者の戦争責任とその有罪性を日本人に理解させること。
出典:賀茂道子『ウォー・ギルト・プログラム GHQ情報教育政策の実像』、法政大学出版局、2018年、159頁

■「クイズ番組の輸入」はGHQの施策だった
戦時下日本のプロパガンダに問題があったのは明白ですが、占領軍の情報発信もまた、一種のプロパガンダであることには注意が必要です。

「真相はかうだ」の冒頭はベートーヴェンの「運命」から始まり、番組内では、銃声、怒号、悲鳴などの効果音が駆使されました。
メディア研究者の太田奈名子は、番組で日本人同士の対話という形式が取られたのもまた、占領軍側の戦争観を浸透させるための巧妙な仕掛けであったと指摘しています。
とはいえ、「真相はかうだ」がすんなりと受け入れられたわけではなく、一部の聴衆からは強い反発がありました。ただの抗議だけではなく、NHKに対する爆破予告や、クリエイターに対する脅迫もあったといいます。
それまで信じていた常識がまっこうから否定され、それもいままで真逆の発信をしてきたNHKが放送しているというのですから、理解を拒む聴取者が出てきたのも不思議ではありません。
CIEはほかにも、ベストセラー「太平洋戦争史」を編纂したり、教育基本法の制定をはじめとする教育改革に深く参画したりと、多様な施策を組み合わせて戦後日本を方向づけしようとしていきます。
その施策のひとつが、「クイズ番組の輸入」でした。
■日本初のクイズ番組がスタート
1946年12月3日、日本初のクイズ番組である「話の泉」の放送がNHKラジオで始まりました。この番組はたちまち人気を呼び、1964年まで18年にわたる長寿番組となります。
「話の泉」は、1938年に放送が始まったアメリカのラジオ番組“Information Please”をモデルに制作されました。
その後も、“Twenty Questions”の翻案である「二十の扉」(NHK、1947年~1960年)、“What’s My Name?”に範をとった「私は誰でしょう」(NHK、1949年~1969年)と、「輸入品」のクイズ番組が次々と放送を開始します。
これらすべての背景に、CIEによる助言がありました。

「話の泉」の基本的なフォーマットは、聴取者が投稿した問題を司会が読み上げ、それに対してゲストが答えを出すというシンプルなものでした。
問題はシンプルな一問一答よりも謎かけめいたものが多かったのですが、解答までの時間は10秒間と決められており、いまの感覚ではずいぶん短く感じられます。
とはいえ、ラジオ番組で無音の時間を作るわけにはいきませんから、そう長くシンキングタイムを取ることもできません。
ゲスト解答者に迎えられたのは、詩人のサトウハチロー、映画監督の山本嘉次郎、音楽評論家の堀内敬三……といった面々で、初代司会は元祖マルチタレントというべき徳川夢声が務めました。
■問題を投稿するとお金がもらえる
第3回放送からはNHKアナウンサーの和田信賢が司会に代わり、徳川夢声は解答者に回ります。難問奇問を鮮やかに打ち返すゲストたちの博識ぶりが際立ち、和田アナウンサーの「ご名答!」という言葉は流行語にもなりました。
問題の投稿者には、番組で採用されると30円、ゲストが答えられなかった場合は50円の賞金が与えられました。番組の人気とともに問題の投稿も盛りあがり、1950年度には133万通(!)の応募が寄せられています。
当時は戦後間もなく、急激なインフレのさなかだったこともあり、賞金額はさらに上がっていきました。
ちなみに、当のNHK関係者はもともと、「話の泉」にこれほどのヒットを期待していなかったようです。
CIEラジオ課の週間報告書には、第2回放送の時点で「投書殺到。CIEラジオ課、NHK番組関係者の予測とは逆に聴取者はこの種の新しいタイプの番組を受け入れていると判断」と記載されています。

1947年2月の報告書では「クイズの熱狂(quiz craze)が日本を襲った」という表現が使われており、当時の流行ぶりがうかがえます。
■今とちょっと違う「当時のクイズの問題」
せっかくの機会ですから、実際に出題されていた問題はどんなものだったかを見てみましょう。当時の問題をまとめた冊子には、以下のジャンル分けに沿って問題が収録されています。
「一般」「政治・経済」「芸能」「科学」「歴史」「スポーツ」「文学・美術」「地理」「音楽」
どうでしょう。現代的な感覚のジャンル分けと大きく変わらないのではないでしょうか。ただ、問題そのものは、いまのクイズとはだいぶ違っています。とくに「一般」の項目を見てみると……
鐘の音を聞いても、場合によって、叉人によって、さまざまな感じをうけるけれど、次の場合に感じる鐘の音はどんな鐘でしょうか。

1.聞いてびっくりする鐘の音

2.晴々しく聞こえる鐘の音

3.名残惜しくる鐘の音

4.少数の人のみ残念に聞く鐘の音

5.壮厳に聞こえる鐘の音
出典:和田信賢編『話の泉 1』(青山書店、1948年)。引用にあたって漢字の字体や仮名遣いをあらためました。

とあります。答えは順に「半鐘」「平和の鐘」「出船の鐘」「話の泉の鐘のなったときの解答者」「葬式、教会等の鐘」。
■斬新すぎるジャンル「文学」の問題
これは聴取者が送ってきた模範解答ということなのでしょうが、あまりにも主観的だし、とくにひねりも感じられません。

「話の泉の鐘のなったときの解答者」というのは、時間切れで答えが出せなかったときのゲストを意味していると思われますが、おいおい内輪ネタかよ、とツッコみたくもなります。
一方、問題文が定型化されておらず、問い口に手紙のような味わいがあるところは、いまの視点では新鮮です。ジャンル「文学」の問題では、さまざまな小説の登場人物名の列挙とともに、以下のように問いかけます。
次の男性は古今東西の名作に登場します。この男性の恋人を探してやってください。

いまのクイズであれば、「次の文学作品の登場人物について、恋人役にあたる人物の名前を答えてください」となるところですが、しゃれた言い回しが光ります。
■昔のクイズは今より難易度が高いワケ
一度に複数の答えを出させる問題が多いのも特徴です。出世魚を4つ以上挙げろとか、石炭から作れるものを7つ答えろとか、真田十勇士を全員言えとかといった類いの設問が散見されます。
地球が球体である根拠をこどもでもわかるように説明しろ、という問題もありました。
いまのクイズ番組ではあまり見られないスタイルの問題ですが、要はこれは出題者(=聴取者)と解答者(=ゲスト)の知恵比べに力点が置かれているからだと考えられるでしょう。
現代のクイズ番組では、基本的には出題者は「黒子」扱いです。多くの場合、番組の見どころは解答者同士の競い合いにあります。

中には「クイズ!あなたは小学5年生より賢いの?」(日本テレビ系列、2018年~)のように、それぞれの解答者が個別に問題に挑む形式もありますが、出題者との対決の構図がメインになることはほとんどありません(「クイズ$ミリオネア」[フジテレビ系列、2000年~]のように、「司会者対解答者」という構図はあります)。
最初に挙げたようなクイズとして成立しているのか怪しい問題を除くと、全体的には一定以上の教養と網羅的な知識がないと歯が立たない設問が多く、いまのクイズ番組よりかなり難易度が高い印象を受けます。
当時はまだテレビもなく、もちろんインターネットもありません。新聞、雑誌、書籍、ラジオなどの限られた情報ソースのなかで出会いうる知識を、より深くつかんでいることこそが、解答者たちに求められる「知性」の像であったことがうかがえます。
■クイズ番組は豊かなアメリカ社会の象徴
では、CIEは、どのようなねらいでクイズ番組の導入を助言したのでしょうか。
さきに結論から言うと、クイズ番組は豊かなアメリカ社会の象徴であり、アメリカの精神的美徳を体現するものでもありました。
アメリカ的な価値観を示すと同時に、クイズ番組特有の性質が、日本社会のあり方を変えていく効果も期待されていたものと思われます。どういうことでしょうか。
アメリカでは1920年代はじめに商業的なラジオ放送が勃興し、1930年代にはすでに、クイズ番組が人気プログラムのひとつとして定着していました。この時期は同時に、アメリカの中流階級の生活基盤が急速に整えられたタイミングでもあります。
■日本にもたらされたアメリカ的価値観
「狂騒の20年代」「黄金の20年代」という言葉で表されるように、当時のアメリカは文化、産業、インフラなどさまざまな面で劇的な変化を迎えています。
1920年代後半には自動車の世帯普及率は50%を超え、ラジオの受信機、洗濯機や冷蔵庫といった家電製品も浸透していきました。
クイズ番組はちょうど、当時の時代の潮流とマッチしていました。一般参加型のクイズ番組は、身分にかかわらず誰にでも参加の権利が与えられている一方、実力に応じて賞金・商品といった報酬が得られるという実力主義の構造を備えています。
機会は平等に与えられ、結果は能力に基づいてもたらされる。クイズ番組はフェアプレイ、自由競争、勤勉といった「アメリカ的価値観」を体現していたのです。

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徳久 倫康(とくひさ・のりやす)

クイズプレイヤー

1988年生まれ。早稲田大学文化構想学部を卒業後、株式会社ゲンロンに入社し、事業統括、取締役を歴任。現在は株式会社batonでQuizKnockのメディア運営やブランド管理に携わっている。趣味のクイズでは100以上の大会で優勝し、「競技クイズ界最強の男」の異名で「くりぃむVS林修! 超クイズサバイバー」などのテレビ番組にも出演。著書に『クイズ用語辞典』(共著、朝日新聞出版)がある。

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(クイズプレイヤー 徳久 倫康)
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