※本稿は、大矢俊雄『教養としての為替』(かんき出版)の一部を再編集したものです。
■近年、円安は貿易赤字を増やしている
従来、円安は輸出の価格競争力を高め、貿易黒字を増やす、と言われてきました。
しかし、2022~2024年の3年間、円安が進んでも日本は対世界で貿易赤字のままでした。
これはどういうことでしょう?
図表1を見てください。
これは、日本の貿易収支の推移(棒グラフ)と、円の実質実効為替レート(通貨単体の強さを測る指標)の推移(折れ線グラフ)の相関関係を示したものです。
右軸は実質実効為替レートの水準を示すもので、あえて上下を逆にして、上が円安、下が円高になるようにグラフを作っています。
貿易収支が黒字になれば棒グラフは上に行くので、伝統的な理論では、円安になれば、棒グラフと折れ線の2つとも上に行くはずです。
しかし、このグラフを見ても、そんな相関があるようには見えません。特に、2013~2015年と、2021年以降は、「円安に振れると貿易赤字になる」という真逆の傾向が顕著に見て取れます。
したがって、「円安は貿易黒字を増やす」というのは、データ上の裏付けを欠くことになります。
もう1つ、さらに深掘りして、円の実質実効為替レートの推移と日本の輸出額・輸入額との相関関係を示すグラフを用意しました。
これを見ると、①輸出よりも輸入の方が為替レート変動の影響が大きく、②2012年や2020年以降の円安局面では、輸入額の伸びが輸出額の伸びを上回る(その結果、円安と貿易黒字縮小・貿易収支赤字化が同時に起こる)、ということが分かります。
■円安が貿易赤字を増やしている3つの背景
この理由をどう考えれば良いでしょうか?
理論的には、円安になれば、①輸入については円建て輸入物価が上がるので輸入数量が減る、②輸出に関しては現地価格を下げられるので輸出数量が増える、現地価格を下げない場合は円建て輸出額が増える、という経路で貿易黒字が増えると考えられます。
しかし現実には、日本は円安の下で貿易赤字になっています。なぜでしょう?
ここでは3つのことが指摘できると思われます。
1つは、輸出と輸入の円建て比率の差です。財務省が公表した2025年上半期のデータでは、日本からの輸出の円建て比率は36.5%なのに対し、日本への輸入の円建て比率は25.3%と低くなっています。
要するに、輸入の方が円レートの変動の影響が大きいのです。
特に、中東からの輸入はほぼ全てがドル建て(97.1%)であり、ドル高は資源の輸入価格上昇に直結することになります。
こうした貿易取引の際に価格の基準として用いられる通貨は「インボイス通貨」と呼ばれます。
2つ目は、数量への影響です。輸入に関しては、エネルギーが典型例ですが、国産品で代替できないものが極めて多い、したがって円建て輸入価格が上がっても輸入数量は減らない(円建て輸入額は増える)、という点も指摘できるかと思います。
他方で、円安になっても輸出数量が増えにくいという状況もあります。
しかし、近年、輸出品は、他の新興国等との関係で常に競争にさらされ、現地価格を上げるのは困難です。
現地価格が一定の場合、円安は円建ての輸出額を増やすので、輸入価格の上昇による収益への影響をある程度吸収できることになりますが、輸出品の価格引き上げ圧力がかかる中で「円安により現地価格を下げる」ことは実際には難しい、したがって輸出数量が増えるとは限らない、という状況があると考えられます。
3つ目は、日本企業の海外進出です。為替リスクを避けるため、また、国ごとのニーズの違いに対応するため、「市場のあるところで生産を行う(現地生産増)」という方針の企業が増え、現地生産比率が高くなったことから、輸出数量が伸びにくくなってきた、ということが挙げられます。
■「海外投資のリターン」が経常収支黒字増に
これを説明したのが図表3です。
国際協力銀行のデータを基にしており、海外生産比率は2002年度の26.0%から2018年度には36.8%にまで上昇しました。
近年は海外生産比率の伸びはやや鈍化し、2024年度は36.1%の水準です。
現地生産増という構造的な状況変化があるのであれば、円安が貿易黒字増に直結するというのは、さらに言いにくくなっているように思われます。
しかし、ここでもこうした構造変化は、日本経済にとって前向きなチャンスの面もあるはずです。
たとえば、現地のニーズに合った製品を低コストで現地で作り、増加した現地での収益は、海外への投資からのリターン(「第一次所得収支」:今や唯一の日本の国際収支黒字要因です)を増やし、経常収支黒字を増やします。
日本の経常収支黒字は近年更に増えています。
この増加した黒字を、日本企業の生産性向上・競争力強化のための投資に回すことができれば、日本の成長の基盤が強化されるはずです。
■円はまだ「安全通貨」か
為替市場では、「円は安全通貨なので、世界的有事の際は強くなる」という「神話」がたびたび言われてきました。これは「有事の円買い」「質への逃避」と言われることもあります。
では、この「神話」はデータに裏打ちされたものなのでしょうか? ありうる「根拠」はどういうものなのでしょう?
そしてそれは今でも生きているものなのでしょうか?
ここでは、過去の3つの事例を見てみましょう。
日本と関係のない「外的な」ショックが発生した例として、1990年の湾岸戦争、2008年のリーマンショック、2020年のコロナ禍について、発生後の為替レート(ドル円と実質実効為替レート)の反応を見てみます。比較がしやすいように、ドル円レート(左軸)も円高が上になるように、グラフを作っています。
過去の事例① 湾岸戦争
1990年8月にイラクがクウェートに侵攻し、米国を中心とする多国籍軍がクウェート防衛のための軍事介入を開始しました。
その後、図表5に見られるように、円は実質実効為替レートでも対ドルでも急騰しました。
過去の事例② リーマンショック
2008年9月にリーマン・ブラザーズが破綻し、世界の金融市場に衝撃が走ると、円は実質実効為替レートでも対ドルでも急騰しました。(図表6)
過去の事例③ コロナ禍
2020年2月に新型コロナウイルスの感染拡大が報じられた後、円は実質実効為替レートでも対ドルでも若干上昇しましたが、2021年に入るといずれも大きく下落を続けました。(図表7)
湾岸戦争やリーマンショック後に円の水準が大きく押し上げられたことと比べると、大きな違いです。
これらの動きをどう解釈すれば良いでしょう? 「円は安全通貨」「有事の円買い」「質への逃避」の根拠は何だったのでしょうか?
■円への信認を示す1つのデータ
そもそも、円と同時に、「有事のドル買い」という言説も市場ではたびたび言われてきました。これとの関係はどうなのでしょう?
ドルと円で共通するのは、取引規制がなく、通貨も国債も世界中どこでも取引できる安全性の高い資産であるということです。
この理由から、世界的な危機が発生し、いわゆる「リスクオフ(リスク回避志向)」が強くなった時に、円やドルは買われやすいので強くなる、というのは理論的には理解できます。
円の安全性に関するデータを1つご紹介しましょう。IMFが公表した2025年第2四半期時点でのデータによると、世界各国政府が保有する外貨準備の中での保有通貨別シェアのランキングは、図表8のようになっています。
円は、米ドル、ユーロに続く3位のシェアを維持し、2年前よりシェアが増えています。一方、世界経済においても貿易面でも大きな地位を得ている中国の人民元は7位で、2年前の5位から順位を下げました。
人民元(及び人民元建て資産)はまだ多くの取引規制があることが低い評価につながったと考えられます。このデータは円の安全性が評価されている証だと考えられます。
■円の取引の安全性はまったく変わっていない
では有事の際に、ドルと円との関係はどうなるのでしょう?
これまで「世界的有事の際は米国への影響も不可避で、米国が利下げをするので日米金利差が縮小して円高になる」といったことが言われてきました。
これは湾岸戦争やリーマンショックのように、米国への影響が日本への影響よりずっと大きい、という状況であれば理解できるところであり、こうした状況では「有事のドル買い」は起こらないと考えられます。
「有事の円買い」に関しては、世界有事の際はリスクオフになって海外への投資を手控えるので、日本から海外への投資も手控えられて外貨買いが減り、円高になる、という側面もあるかもしれません。
1つデータを紹介すると、図表9は日本から海外への直接投資の額(新規実行額)を示したものですが、リーマンショックの後、2008年後半から2010年にかけてかなり減少したことを示しています。
折れ線グラフは、すでに海外に行った直接投資の日本への引き揚げ額(回収額)を示したものですが、こちらはリーマンショック後に大きな変化はありません。
それでは、今も「円は安全通貨」と言えるのでしょうか?
コロナ禍の場合や、ロシアのウクライナ侵攻の際は円高への動きは見られませんでした。為替市場において「円は安全通貨」という言葉を聞くことも稀になり、むしろ「円の信認の低下」という言葉を聞くことが多くなりました。
しかし、円の取引の安全性はまったく変わりません。先ほど示した「世界各国政府が保有する外貨準備の保有通貨別シェア」の表でも分かるように、各国の外貨準備に占める円のシェアは近年むしろ増えています。
円への信認は、すなわち日本経済・財政への信認であり、これをいかに強化するかが今後の我々の大きな検討課題となるでしょう。
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大矢 俊雄(おおや・としお)
DeNAチーフエコノミスト
元財務省審議官、元国際協力銀行常務取締役、元内閣官房内閣審議官。1986年大蔵省(現・財務省)入省。現在はDeNAチーフエコノミストを務める。著書に『霞が関官僚の英語格闘記「エイゴは、辛いよ。」』(東洋経済新報社)などがある。
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(DeNAチーフエコノミスト 大矢 俊雄)

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