恋愛でも「コスパ」を重視する人が増えている。筑波大学教授でメディアアーティストの落合陽一さんは「たしかに、マッチングアプリで相手を見つけたほうがはるかに早くて効率的だ。
しかし、効率だけを求めて漂白された人生は、本当に『生』なのだろうか」という。芥川賞作家の田中慎弥さんとの対談をお届けする――。
※本稿は、田中慎弥・落合陽一『堕落論 住めば都のディストピア』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
■AIが書いた文章があふれる時代に
【落合】AIやロボットの進化はすさまじく、人間を介在させず勝手に進歩するレベルまであと数年でいくでしょう。大きな変化が早晩やってきます。すでにインターネット上で新たに生み出される文章のかなりの割合が、AIで書かれたものになっています。人類が歴史上でつくってきた全文章を足し合わせたものより、ここ数年でAIが生成した文章のほうが多くなっています。
もうすぐAIによって人類の存在や歴史は塗り替えられます。それがどういう世界となるのか、わかりません。どうやらディストピア的な色合いが濃そうですが。田中さんは、そうなっても小説を書きますか?
【田中】書きます。小説は自分が読むものであり、自分が書くものですから。
別にAIが書こうがほかのだれが書こうが、AIが書いた小説をAIが消費するようになろうが、みずから書くという私の営みは続くでしょう。
人間が自分自身のために小説を書く、という行為がこれから先、どんどん廃れていくのかもしれませんけれど、それでも私は小説を書くでしょう。非常にいじましく、ささやかなこととして、続けていくのだと思います。もともと人間の人生なんてちっぽけなものですから。
未来のことから現代へ視点を戻すと、私は新人賞の選考委員をやっており、たくさんの応募作を読む機会があります。そこで気づいたのは、このところ部屋の中の場面が多い点です。コロナ禍以降、リモートワークが広まった影響などもあるのかもしれませんが、ともかく社会とのリアルな接点が希薄になっている印象を受けます。
室内を意図的に巧妙に使うのであればいいのですが、何となく部屋で人と話していたり、喧嘩していたりする。「なぜ部屋の中なのか」という必然性を求めすぎるのもよくないですが、なんだか世界が半径数メートルで完結してしまっているような、閉じた感じがします。
■リモート世代にとってのリアル
【田中】これは人のことばかり言っておられず、私がかつて新人賞をもらった小説も、中学生の男の子がじっとうずくまっている場面ではじまりました。狭くて小さい、内向きの世界です。ただし、男の子がうずくまっていたのは、屋外でした。
意図したかどうかはっきり覚えていませんが、ちっぽけな自分の存在が世の中に追い出され縮こまっている様子を、天井のない開けた世界の中で描きたかったのだと思います。外気に触れている感覚がその場面では必要だった。
いまの小説の多くは、最初から閉じられた空間にいる。リモート世代にとっては、それが切実でリアルなのかもしれませんが、古い世代からすると「もっと外へ出ろよ、風に当たれよ」と思ってしまったりもします。
【落合】私がVR作品の審査をするときも、似たようなことが起きています。コロナ禍以降、たしかに部屋の中でスタートする作品がやたら多くなりました。四畳半くらいの小さい部屋です。場面を閉鎖的な場所に設定すれば、外側の世界への怖さを表現することはもちろんできるわけですが、それだけではないような気がします。
部屋を採用するのは、それが日常的であり身近だからでしょう。世界へのインターフェースが「窓」ではなく「画面」になった結果、部屋にいながら世界とつながれるようになっています。以前はもうすこしオフィスやカフェではじまるものも多かったところが、このところ部屋が増えています。
■どこにいてもみんなスマホを見ている
【落合】思えばカフェという開かれた空間自体も、もう機能しなくなっているのではないかと思います。
カフェにいてもいまはみんなスマホを見ています。身体はそこにあるけれど、意識は別の場所にある。カフェという業態自体は健在ながら、以前のカフェとはジャンルが違っているのかもしれない。
それでいえば飲み屋も同様です。コロナ禍以降、飲み会が減ったのは周知の事実です。しゃべる場所が飲み屋ではなく、SNSとスマホになっている。スマホを使っている場所はどこかといえば、各々の部屋です。おもしろい話も恋愛も、部屋にいながら起こるものとなっているのかもしれません。
■恋愛にもローリスクと合理性が求められる時代
【落合】先日、大学の落合研究室のOB会に行きました。卒業生たちはけっこうな割合で結婚をしていたのですが、その人たちの出会いの多くがマッチングアプリでした。彼らは「いまどき職場恋愛なんて危険なことはしません」と言う。ハラスメントのリスクもあるし、別れたあと気まずくなりますから。
他者を求めるときに、ほどよく距離が遠くて気の合いそうな人を、最もリーズナブルに探せる方法として、マッチングアプリが最適なものとして選ばれているのです。
たしかにアプリなら、条件によってフィルタリングして、効率よく相手を探せます。出会いはカフェや飲み会にはありません。物理的な衝突が起こって、偶然目が合って恋愛がはじまるわけではなく、機能が先行して恋愛がはじまる。すでに、リアルな公共空間から生まれた恋愛によって人類が再生産されているわけではなくなっている、というのはおもしろいなと思います。
祭りに参加して、みんなでワイワイやって、気が合う異性を見つけるよりも、スマホアプリのなかでAIのサポートを受けながら見つけるほうがはるかに早くて効率的なのです。コストパフォーマンスがいいからそちらを選ぶ。非常に合理的です。ただし合理性を突き詰めると、どんどんディストピアに近づいていくのもまたたしか。事の是非はともかく、合理性をとってディストピアを受け入れるという判断が、恋愛の現場では多く採用されているのです。
■「最適化された生き方」から「堕落」せよ
【落合】そう考えると、「堕落する」というのは、かなりのエネルギーが必要なことのように見えます。合理性に基づかず、社会のレールから外れるわけで、そこには常に摩擦熱が生じますから。

現代的に「清く生きる」というのは、恋愛にはマッチングアプリを使ってください、コンプライアンスを守ってください、健康に気を遣ってください、ということだと思います。それがいまの「正しさ」であり、「最適化された生き方」です。
対して現代における「堕落する」とは、マッチングアプリを使わずに渋谷のセンター街でナンパすることだったり、深夜にラーメンを食べることだったりします。これは効率が悪いし、健康にも悪いし、社会的なリスクもある。コストパフォーマンスは最悪。効率だけを求めて漂白された人生が本当に「生」なのか。それとも非効率で汚れた堕落の路(みち)にこそ「生」があるのか。
■「ビール飲んじゃおうかな」と思う朝
【落合】そういえば最近は、既婚者同士のマッチングアプリまであります。「そんなのアリですか?」というものが平気で存在するようになっている。本来なら背徳的で堕落に属するものであるはずの不倫さえも、システム化され資本主義に取り込まれ、安全にパッケージングされている。こういうのを「ファッション堕落」と名づけていいかもしれません。背徳感がありながら商業化され、エンターテインメント化した堕落です。

いっぽうで私はたまに、朝起きて「ああよく寝た」と思った次の瞬間に、「ビール飲んじゃおうかな」と思うときがあります。これは「ファッション」とは付かない本式の堕落です。社会的な時計を無視して、自分の身体の欲求に従う。体調がいいときに飲む酒がいちばんうまい。
元旦は多くの人がそんな気分になりますよね。一月一日は人々が堕落する日と考えられます。すっきり寝て、朝、おせちを片手に日本酒を飲む。そう考えると、週四日くらい正月のような生活をしている人は、けっこう正しく堕落しているのかもしれない。
■ささやかな社会への反抗
【落合】または平日の十一時半あたり、街のレストランが開く時間帯に、新橋などサラリーマンが多い場所の中華料理店で、彼らの間に混じって餃子とビールをやる。これももちろん堕落です。周りの人たちがあくせく働いているなかで、「こっちは仕事をサボって、社会の歯車になることから降りて、堕落の真っ最中ですよ」と見せびらかすのが痛快なのです。一種のマウンティングに近いかもしれませんが、社会規範に対するささやかな抵抗ですね。
これが旅行に出るとなると、意外と堕落って感じじゃなくなってしまう。「日比谷線で最後まで行ったらここに着いちゃった」とか、「朝なんとなく小田急に乗って箱根まで行っちゃう」とかならいいのですが、最初から「鬼怒川温泉まで行くぞ、十三時の特急に乗って、十五時にチェックインして……」と予定していると、あまり堕落っぽくない。それは「観光」というタスクをこなしているだけです。
おそらく「適度にサボる」というのが重要なのでしょう。ささやかに社会に反抗し、ささやかにサボる。大きく反逆したり、だれかに危害を加えたりするわけではないけれど、ささやかにシステムのエラーになるという姿勢が重要です。
■しがらみがあってこそ堕落が楽しい
【田中】小説も堕落を書くほうがおもしろくなりそうです。たとえば「思わず箱根に行ってしまった」という状況は小説になりそうな感じがするし、そこからストーリーとして何かが出てきそうな予感がします。
箱根に行っちゃったけど結局何もしなかった、「ああつまんねえ」と思うところまで含めて堕落といえます。目的も生産性もない時間を過ごすことへの罪悪感と快楽がそこにはある。堕落している側にも、「何やってんだ自分は」という忸怩(じくじ)たる思いはあるはずで、そうした自己嫌悪を含んでこその堕落です。
さらにいえば、守るべきものやしがらみもあったほうがいい。妻子を置いてふらりと箱根に行ってしまうから小説になるのであって、家族と一緒にのんびり箱根観光するのは、単なる金持ちの幸せな道楽になっておもしろくない。守るべきものがあるのに、後ろ髪を引かれながらもそれを放棄する、という構図がないといけません。
そう考えると、堕落とは多分に心持ちの問題となってきますね。世の中のディストピア化が進んでいると述べましたが、ディストピアでも堕落はでき得るのだという気もしてきます。「住めば都」ということでしょうか。未来のディストピア世界も、住んでしまえば案外悪くない場所なのかもしれません。

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田中 慎弥(たなか・しんや)

作家

1972年、山口県生まれ。2005年に「冷たい水の羊」で新潮新人賞を受賞し、作家デュー。08年、「蛹」で川端康成文学賞、『切れた鎖』で三島由紀夫賞を受賞。12年、『共喰い』で芥川龍之介賞を受賞。19年、『ひよこ太陽』で泉鏡花文学賞を受賞。『燃える家』『宰相A』『流れる島と海の怪物』『死神』など著書多数。

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落合 陽一(おちあい・よういち)

筑波大学教授、メディアアーティスト

筑波大学でメディア芸術を学び、2015年東京大学大学院学際情報学府にて博士(学際情報学)取得。現在、メディアアーティスト・筑波大学デジタルネイチャー開発研究センター長/図書館情報メディア系教授・ピクシーダストテクノロジーズ(株)CEO。応用物理、計算機科学を専門とし、研究論文は難関国際会議Siggraphなどに複数採択される。令和5年度科学技術分野の文部科学大臣表彰、若手科学者賞を受賞。内閣府、厚労省、経産省の委員、2025年大阪・関西万博のプロデューサーとして活躍中。計算機と自然の融合を目指すデジタルネイチャー(計算機自然)を提唱し、コンピュータと非コンピュータリソースが親和することで再構築される新しい自然環境の実現や社会実装に向けた技術開発などに貢献することを目指す。

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(作家 田中 慎弥、筑波大学教授、メディアアーティスト 落合 陽一)
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