2018年の前作『Ya Chaika』は、それまでのアンビエントで実験的なサウンドスケープから一転、歌モノの比重が増え「ボーカリスト」としての魅力を垣間見せる内容だった。
オリジナル曲に加え、フィッシュマンズ「いかれたBaby」と浅川マキ「わたしの金曜日」のカバーを収録した全13曲。そのなかの多くで「距離」をテーマにしているのが印象的だ。「『言葉』を使うことは社会とつながることで、そこには『戸惑い』もあった」と、以前のインタビューで話していた角銅。戸惑いながらも言葉を使い、「距離」について歌いながら他者(という社会)とのインタラクティブなやり取りを試みたのは、どんな心の動きがあったからなのだろうか。彼女に訊いた。
─今作は、前作『Ya Chaika』以上に「歌」にフォーカスしたボーカル・アルバムに仕上がりましたね。
角銅:そうですね。それまでは「歌」と言ってしまうにはもっと曖昧な感じでした。レコーディングでも「状況」を切り取るというか、言葉とメロディも「景色の一部」のような感じだったんです。でも『Ya Chaika』で初めて自分自身の音楽に「言葉」が出てきて、「これはなんだろう?」という気持ちがあって。次はもうちょっとそこを見てみたいと思っていました。
─言葉の比重が増えてきたのは、自分では何故だと思いますか?
角銅:自分のプロジェクトだけじゃなくて、例えば石若(駿)くんの「SONGBOOK PROJECT」に参加したり、原田知世さんの楽曲に歌詞を書いたりしたのも大きかったと思います。そこで言葉とメロディが組み合わさった時に、楽曲にバーンと奥行きが出るというか、一言だけでいろんな意味が含まれたりするのがすごく面白くて。これまで自分の身の回りにある様々なモノを楽器として鳴らしていたのと同じように、自分の中にある言葉も一緒に鳴らせるというか。「歌詞」というよりは、鳴らすための新しい「素材」を一つ見つけたような気持ちが大きかったのだと思います。
石若駿「SONGBOOK PROJECT」のライブ映像
ceroのライブ映像、角銅はパーカッション/コーラスで参加
角銅が歌詞を提供した原田知世「Hi」(2018年作『ルール・ブルー』収録)
─以前のインタビューで、「言葉」を使うことは、社会とつながることで、そこには「戸惑い」もあったと話していました。
角銅:元々、例えば今いる場所から遠くにいくためにだったり、自分の世界に没入したり、一人になるために私は音楽をやっていて、今もその気持ちはあるのですが、その一方で、音楽をやればやるほど色んな人と関わるようになっていって、色んなことが複雑になっていくことへの戸惑いというか。こっちへ行こうと思っているのに、逆の方向へも引っ張られる、その状況をちょっと俯瞰したところから見ている感じはありますね。
─石若駿や中村大史、西田修大など、参加ミュージシャンもとても豪華です。
角銅:いつも一緒にライブをやっている人たちで、一緒に過ごす時間もわりと長くて、信頼している人たちです。自分自身のパーソナルな音楽を、どこまで形を変えずに拡張できるか?というか。たくさんの人が関わって、自分の部屋じゃないところで録音していく中、どこまで「1人の景色」を保てられるかは大きかったから、そこを分かってくれる人たちに声をかけました。
─曲のイメージを伝える時には、いつもどんな方法を取っているのですか?
角銅:基本的にはデモを作り、それを譜面に起こして、それを実際に弾いてもらって細かいところをリクエストしていくという方法でした。
『oar』のリードトラック「Lullaby」のMVを手掛けたのは南米コスタリカ出身、現在はロンドンを中心に活動するアニメーターのジュリアン・ガレセ
─アルバムタイトル『oar』は、どんな由来があるのでしょう。『Ya Chaika』の時は、「いつか使おうと思って取っておいた」っておっしゃっていましたけど。
角銅:今回は何の気なしにつけました(笑)。オールってどうやって書くのかなと思って調べたらoarで、「おわーっ!」って読むみたいだなと思って(笑)。言葉に出しても面白いし、「ear(耳)」にも似ていて可愛いし、「え、オール?」って言われて、「そうなんです。o-a-rって書いて、海でこう、舟を漕ぐオールだよ」って一々説明しなきゃいけない気がして、それもなんかいいなと思ったんですよね(笑)。
あと、これは後付けですが、楽曲が自分の手から離れ、受け取った人の中で色んな風に形を変えたり、どんどん知らないものになっていったりするといいなというのがあったから、「オールを漕いで、勝手にどこへでも行ってくれ」という意味にもなるかなと。
─アルバムを作る時にお手本にした人とかいました?
角銅:特にお手本にした人はいませんが、好きなアーティストならたくさんいます。最近はサム・アミドンさんが大好き! 特に『I See The Sign』(2010年)とか、弦楽器もたくさん入った大きな編成なのに、いい意味でこじんまりとしているというか。
─メロディはどのように浮かんでくるのですか?
角銅:曲を作っている時にそこまでメロディを真面目に考えることってあまりなくて(笑)。なんて言ったらいいんだろう……うーん!(身をよじらせる)みたいな感じで、ただ思いつくんです。
─(笑)。例えば他の楽器のフレーズを考えるのと、メロディを考えるのは同じ感覚?
角銅:いや、今回は歌をどこまで引き立たせられるかを、いつもよりもしっかり考えました。歌がフッと聞こえてくるような楽器編成やアンサンブルというか。あと、ひとつ思ったのは、「受け取る自由」が「歌」にはあるということでした。
─というと?
角銅:歌が人々の暮らしや心の中で、どんどん違うものに変わっていくというか。私は今、「きりん」という名の猫を飼っているのですが、家できりんを抱っこしてあやしながら、その時思いつく歌を歌ったりするのですが、そういう時って歌詞もメロディも、原曲からどんどん変わっていきますよね。記憶の中で、経験の中で、どんどん違うものになっていく……それは、「歌」という音楽の形には、受け取る側の自由があるからなのかなって。
─なるほど。今、お話を聞くまではインストの方が「受け取る自由度」が高い音楽だと思っていたんですけど、確かに「歌」の方が好き勝手に歌える分、どんどん変形していく自由度の高い音楽なのかも知れないですね。
角銅:そうなんです。私が今回作った楽曲たちも、歌として人の暮らしのそばにそっとあって、誰かの記憶の中で全然違うものになって、「あれ? これ誰の曲だったっけ?」みたいに、誰のものでもなくなる曲が出来たらいいなと思いました。
─曲を作る行為は、誰かに伝えたい、届けたいというという気持ちとは少し違う?
角銅:違いますね。私は、自分の目の前で起きたことを一度「音楽」にすることでしか生きられないところがあります。その作業をせずにはいられず勝手にやっているだけなんですよ。そこから作品にしていく段階では、これがどういうものになっていくかとか、意味を考えながら作りますが、どんな形になっても、最初の作り始めの出発点は今後も変わらないと思います。……多分(笑)。
─(笑)。例えば「December 13」の歌詞の一部が、「Slice of Time」にも英詞となって登場します。
角銅:はい、そうですね。
─どんなところから出てきた言葉だったんですか?
角銅:それはちょっと恥ずかしくて言えないんですけど……。
─はははは。
角銅:例えば遠く離れたところにいる人と連絡を取り合っていた時に、地球は回っていて時差もあるから、パッと発した言葉がその人に届く時には私はもういないんだなと、音を視覚的に感じた事があって、おもしろかったんですよね。
あと、「人は独りである」ということも制作中に考えていました。人と心から分かり合ったり共感したりすることってないと思うんですよ。音楽もそう。私は音楽を聴いて踊ったりするのが好きなので、友達がいて良い音で良い音楽がかかってたらそれだけでハッピーなんですけど「あ、この気持ちってきっと私しか知らない」と思うような音楽に心惹かれる。自分が世に出す作品も、そういうものであったらいいなとはなんとなく思っていました。
─「共感」や「共有」を求める音楽とは違うものを作ろう、と。
角銅:例えば「色」にしても、本当にみんなが同じものを見ている時に、同じ色を見ていることはないと思うんですね。
─ああ、なるほど。「他者」として距離があるからこそ、人と人は出会うことができる、と。
角銅:普段、私たちはこうやって身体を持って生きているけど、元々そのことにも戸惑いがあって。結構、いつ笑えばいいかとかもよく分からなかったり、心のありかってどこだろうとか、自分自身にも「距離」を感じるし、そういうところも面白いなと最近は思っています。

Photo by Tatsuya Hirota
─「身体への距離感」と聞いて思い出したのは、「『音楽』に近づくために『女性性』みたいなものもなるべく排除したい」という理由で坊主にしたエピソードです。
角銅:ああ、そんなこともありましたね。
─東京藝大時代、同じく坊主頭だった小田朋美さん(CRCK/LCKS)とキャンパスですれ違った話が大好きなんですよ。
角銅:本当ですか(笑)。そのあと、ダンサーのハラサオリさんも坊主頭にしたから、3つの坊主の星が星座を結ぶように藝大に存在していましたね。
─ははははは。
角銅:そのころは、「音そのものになりたい」と、「他者とフェアに結びつきたい」っていう気持ちが強かったんですよね、性別とかそういう属性に脚色されない状態で。今も音楽そのものになりたいという気持ちは変わらずありますけど、言葉を扱うようになった今は、その頃に比べると「人間」として音楽をやっている自覚はあります。
─フィッシュマンズの「いかれたBaby」と、浅川マキの「わたしの金曜日」をカバーした理由は?
角銅:今回「歌のアルバム」を残すにあたってなぜカバーを入れたかというと、これもやっぱり聴く人の中で歌が自分のものになっていく感覚を、自分でも試したかったからです。2曲とも今までライブで色んなアレンジでカバーしてきた曲だから、それを自分のオリジナル曲と並べるとどうなるのかなと。
しかも、どちらの曲も「距離」のことを歌っているんですよ。例えば「わたしの金曜日」は、”名前も知らない男の人と 並んで歩く”というところがすごく好きで。この”並んで”っていうのは、”一緒に歩く”わけでも”手を繋いで歩く”わけでもないし、かといって”別々に歩く”わけでもなくて。その距離の中に優しさみたいなものを感じるんです。
─今回、角銅さんの中で「距離」はとても大切なテーマだったんですね。
角銅:もう一つ、「鳴らしていなくても聴こえる音」ってある気がしていて。例えば「わたしの金曜日」は、原曲では”憂鬱な わたしの金曜日”という歌詞が決め文句になって終わるのですが、今回カバーする時にはそこをわざと歌ってない。知っている人なら勝手に聴こえるんじゃないかな、と。
「6月の窓」でも、”ほんとうのことは”と歌った後に、言葉じゃなくて口笛を入れていたりして。こちらから「答え」を提示するのではなくて、聞いたその人の記憶や言葉が補うというか、その人の中で初めて歌が完成されるのっていいなと思ったんです。それって人の想像力を信じるということだし、それが本当に豊かなことなんじゃないかって。そんなにメッセージ性のある作品を作ろうと思ったわけではないけど、作品を残すというのは社会的なことでもありますからね。
─とても興味深いです。先ほど、「誰かのために作る」という気持ちは全くないっておっしゃいましたけど、やっぱりそこにはインタラクティブなものというか、聴き手とのやり取りみたいなものも、あるのかなって思いました。
角銅:そうですね。
─しかも、今回は「言葉」を使うことで、以前よりもその傾向が強まったのかなと。
角銅:ああ、そうかも。気づいたらそうなっていました(笑)。「与える人」と「受け取る人」がいるというよりも、お互いに耳を澄ましているような状況。それは自分の中ですごく重要ですね。新しいものや、知らなかったものって、多分そこから出てくるような気がします。人の想像力の中に、本当の驚き……それは刺激のような、「与える人」と「受け取る人」の立場がはっきりしている一方通行の驚きではなく、いわば「問い」のようなものですかね。自分が作っている音楽は全て、自分自身への「問い」でもあるし、他者、社会への「問い」でもあります。
─「Lantana」では”さようなら”というフレーズを繰り返していますよね。
角銅:いつでも自分のやっていることに「さよなら」と言える状態でありたい自分の願望と、一つに固執せず、約束しないでいつまでいられるか?という、自分自身への「問い」を歌にしました。
私、NHKのラジオをよく聴くのですが、中でも『子ども科学電話相談』という大好きな番組があって。毎週楽しみにしているのですが、特に恐竜の小林快次先生のファンで、著書も読んだりしているんですよ。
─へえ!
角銅:あの番組で、最後に先生やアナウンサーと相談者の子どもが「さよなら」ってお互いに言うんです。「さよなら」ってもう二度と会わない時に言いそうな言葉じゃないですか。でも、そのシーンに毎回美しさを感じるんです。そこからもインスパイアされています。
─そのお話も「距離」というテーマに繋がりますよね。
角銅:確かに。ただ、私には今きりんという大事な存在ができてしまって(笑)、毎日「かわいい」と思いつつ「でも私より先に死んでしまうんだ……」って思うとすごく悲しくて。それで初めて人生の先のことを考えるというか、時間軸が一つできたように思います。きりんは特別大事なんですけど、それでもあまり何かに固執せず、いつでも「さよなら」って言える状態でいられるといいなとは思っています。

角銅真実
『oar』
1月22日リリース
https://www.universal-music.co.jp/kakudo-manami/