「サキソフォン・コロッサス」の異名を持ち、その真似のできない即興演奏の技術でジャズというジャンルの言語を再定義した伝説的ジャズ演奏家、ソニー・ロリンズ(Sonny Rollins)が5月25日、ニューヨーク州ウッドストックの自宅で死去した。95歳だった。


彼の死は、広報担当者のテリ・ヒンテによる声明で確認された。死因は現時点で明らかになっていない。ロリンズの訃報を伝える声明には、2009年の彼の言葉が引用されていた。「クリエイティブな人間は、終わりを迎えても次の存在へと続いていくのだと思う。私は、この人生がすべての始まりであり終わりであるとは信じていない。精神性を重んじる人間は、そのようには感じないものだ」

ハーレム出身のロリンズは、1950年代に『サキソフォン・コロッサス』や『ウェイ・アウト・ウェスト』などの歴史的名盤を残し、ハードバップの先駆者としてジャズの可能性を再定義。マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、そしてローリング・ストーンズとも録音を行い、サックス・ソロを提供した。

ソニー・ロリンズの偉大なるキャリアを徹底解説

ハーレムで育ったロリンズは、若い頃にジャズの世界に入り、最初はピアニストとして、その後にサックスへと転向した。「母が7歳の時に、最初のサックスであるアルトサックスをくれた。サックスを手に入れると、私は寝室に行って吹き始めた。それだけのことだった」とロリンズは『ジャズ・タイムズ』誌に語っている。「最高の気分だった。
母が『夕食の時間だから出てきなさい』と私を呼ばなければならなかったほどだ。いつまでもあそこにいられた。一人で演奏するのが大好きなんだ。練習をしているのだが、同時に自分の音楽のミューズ(女神)とも対話しているのだ」

高校在学中、ロリンズはハーレムの同級生であるジャッキー・マクリーンやアート・テイラーとともにテナーサックスの腕を磨き、卒業するとすぐに、トランペット奏者のファッツ・ナバロやピアニストのバド・パウエルといった、すでに地位を確立していたビバップの巨匠たちが率いるバンドに加わった。ロリンズの最初期の録音作の一つが1949年の『ジ・アメイジング・バド・パウエル』であり、これはロリンズがまもなく先駆者となるハードバップというジャンルにおける記念碑的な作品であった。

ロリンズの軌跡は、武装強盗による服役とヘロイン中毒によって一時的に中断され、この中毒は50年代半ばまでに何とか克服することになるが、そうしたトラブルの最中にあっても、マイルス・デイヴィスの『ディグ』を生み出すことになる1951年の歴史的なセッションに参加することができた。デイヴィスとのさらなるセッションは『コレクターズ・アイテムズ』や『バグス・グルーヴ』へと結実し、後者にはロリンズが作曲した「オレオ」が収録された。この代表曲はジャズ・スタンダードとなり、デイヴィス、コルトレーン、エリック・ドルフィーをはじめとする無数の演奏家たちによって演奏されることになる。

1940年代後半から2014年の引退まで、数十年に及んだキャリアの中で、50年代はロリンズにとっておそらく最も実り多き時期であり、このサックス奏者は、バンドリーダーとしての最も重要な一連のアルバムに加えて、セロニアス・モンク(『モンク』『ブリリアント・コーナーズ』)、ディジー・ガレスピー、マックス・ローチ、そしてデイヴィスによるジャズの名盤でサイドマンを務めた。

この年代の中頃にボブ・ワインストックのプレスティッジ・レコードで録音を行い、このサックス奏者は『ソニー・ロリンズ・ウィズ・ザ・モダン・ジャズ・クァルテット』『ムーヴィング・アウト』『ワーク・タイム』『ソニー・ロリンズ・プラス4』、そして『テナー・マドネス』(タイトル曲ではロリンズが、頭角を現しつつあったジョン・コルトレーンと共演している)をリリースした。その後ロリンズは、バンドリーダーとしての最高傑作とみなされている1957年の『サキソフォン・コロッサス』を録音した。

「サックス奏者のソニー・ロリンズにとって、『サキソフォン・コロッサス』の録音は、それまでのアルバムとそれほど変わらないように思われた。
しかし、ジャズファンにとってそれは、ロリンズのキャリアを決定づけるアルバムの一つとなるのである」と、2017年に同アルバムが国家録音登録簿に登録された際、アメリカ議会図書館は記している。「わずか5曲、40分未満という構成は、アルバムとして小規模に見えるかもしれないが、その音楽の質の高さは、60年以上にわたりジャズファンの間で名誉ある地位を獲得してきた。ドラマーのマックス・ローチ、ベーシストのダグ・ワトキンス、ピアニストのトミー・フラナガンというリズムセクションにしっかりと支えられ、ロリンズは力強さ、優雅さ、そしてユーモアを交えてソロを演奏することができている」

何十年も経った後でさえ、ロリンズは自身の最高傑作とされる作品についてこう語っていた。「ただの、もう一回のレコーディングの日、というだけのことだったよ。リーダーとしての最初の録音というわけでもなかったから、特別な意味はなかった。もちろん、あのレコードには素晴らしい ミュージシャンたちが参加していたし、優れたミュージシャンが相手なら、音楽が常に最優先される。最高品質のものにしようとするわけだ。だがそれ以外には、当時も、そしてその後でさえも、あのアルバムについて深く考えることはなかった」

『サキソフォン・コロッサス』のセッションから1年も経たないうちに、ロリンズと、それまで一度も共演したことのなかった2人のミュージシャン、ベーシストのレイ・ブラウンとドラマーのシェリー・マンは、ロサンゼルスのスタジオに集まって深夜のセッションを行い、もう一つのジャズの傑作『ウェイ・アウト・ウェスト』を生み出した。削ぎ落とされたバックの演奏(この編成は、ピアニストを入れないというジャズ界でも最初期のものだった)が、ロリンズの力強い探求のための安定した土台として機能した。

「基本的には、自分の思い通りになるのであれば、サックス、ドラム、ベースというフォーマットが好ましい」とロリンズは『ジャズ・タイムズ』誌に語っている。「それがアーティストに最も大きな影響力と、創造するための最大の自由を与えてくれると思うのだ」。ロリンズ、ドラマーのマックス・ローチ、ベーシストのオスカー・ペティフォードによるこの3人編成は、このサックス奏者の優れた作品『フリーダム・スイート』でもフィーチャーされることになる(ロリンズは後に、ピアノ抜きの演奏をするきっかけとなったのはオーネット・コールマンだと主張したが、実際には、1957年の『ウェイ・アウト・ウェスト』に影響を受けたのはコールマンの方であり、このフリージャズの先駆者は、1959年の名盤『ジャズ来るべきもの』で同様の構成を採用している)。


ローリング・ストーンズ楽曲参加の経緯

ジャズの最前線で白熱した快進撃を続けた後、ロリンズは1959年から1962年まで、3年間にわたり録音活動を休止したが、自身の芸術性に磨きをかけ続けた。ロリンズは、その時間の大部分をウィリアムズバーグブリッジでサックスを吹いて過ごしたと語っている。「私を活動休止に追い込み、橋へと向かわせたのは、自分自身の演奏に対する思いだった」とロリンズは『ガーディアン』紙に語っている。「満足していないということが分かっていたのだ」。ロリンズがようやくスタジオに戻ってきたとき、復帰後最初のアルバムには、まさに『ザ・ブリッジ(橋)』というタイトルが付けられていた。

続く10年間、テナーサックスにおけるジャンル最高の即興演奏家としての地位を確立したロリンズは、ドン・チェリー、コールマン・ホーキンス、ロン・カーター、ハービー・ハンコック、エルヴィン・ジョーンズといったジャズ界の伝説的プレイヤーたちと共演しながら、猛烈なペースで録音と演奏活動を続け、自身のフリージャズへの進出作となった『イースト・ブロードウェイ・ラン・ダウン』に加えて、1966年の大ヒット英国映画『アルフィー』の音楽を作曲した。

ロリンズが瞑想に励んだ1960年代後半の再びの長期にわたる活動休止を経て、彼は1972年に『ネクスト・アルバム』で復帰し、これはオリン・キープニュースのマイルストーン・レコードにおける一連のアルバム群の最初の作品となった。

1981年、ロリンズはザ・ローリング・ストーンズのアルバム『刺青の男(Tattoo You)』のヒット曲「友を待つ」にサックス・ソロを提供し、彼の最も人々の記憶に残る演奏の一つを残した。これは、かねてよりロリンズの崇拝者であったチャーリー・ワッツがバンドの仲間に彼を推薦し、ロリンズ自身の妻も彼に参加を促したことによるものだった。「眩しく燃え上がってすぐに消えてしまう者もいれば、眩しく燃え上がりながら走り続ける者もいる。それには敬意を払わざるを得ない。ソニーは悪いレコードを一度も──ただの一度も作っていない。
いくつかの作品が、他のものより単に素晴らしいというだけだ」と、ワッツは2010年にロリンズについて語っている。

「彼が立ち上がって演奏するとき、畏敬の念を抱いて見つめないサックス奏者はいない。彼は最後の生き残りであり、今でも当時と同じように素晴らしい演奏をしている。彼は今も、自分のやっていることの頂点にいる。本当に時間制限などないのだという大きなインスピレーションを与えてくれるが、あのレベルでそれをやり遂げられる人は、ごくわずかしかいない」

『刺青の男』の3曲で演奏したロリンズは、後にストーンズのシングルで演奏したことについてニューヨーク・タイムズ紙にこう語っている。「ローリング・ストーンズ、彼らのことは黒人ブルースの模倣にすぎないと思っていたから、自分とは結びつけて考えていなかった。かつてニューヨーク州ハドソンのスーパーマーケットにいたとき、トップ40のレコードが流れていたのを覚えている。この曲を聴いて、『この男は誰だ?』と思った。彼の演奏は私の心に響いた。それから私は『ちょっと待てよ、これは私だ!』と言った。それは、あのローリング・ストーンズのレコードの一曲で流れていた、私の演奏だったのだ」

輪廻転生を信じた、晩年のソニー・ロリンズ

今世紀におけるロリンズの注目すべきリリースの一つは、2001年9月11日のわずか数日後に行われた。襲撃当時、ワールドトレードセンターから数ブロックの場所に住んでいたロリンズは、サックスだけを手にアパートからの避難を余儀なくされた。
そのわずか数日後の9月15日、ロリンズはボストンでコンサートを開催し、それは後に、高く評価され、カタルシスをもたらす『ウィズアウト・ア・ソング:ザ・9/11・コンサート』としてリリースされた。

同じくジャズ界の伝説的プレイヤーである故ウェイン・ショーターは、かつてこう語っていた。「私にお気に入りのソニー・ロリンズのアルバムはない。ただ、ソニー・ロリンズのすべてが私の毛穴に、身体に、存在そのものに染み込んでいる」

ロリンズは2004年にグラミー賞の生涯功労賞を受賞し、続いて2010年にはアメリカ国家芸術勲章、2011年にはケネディ・センター名誉賞を受賞した。しかし、2012年にロリンズは最後となるコンサートを行い、その2年後、肺線維症のために音楽界から引退することを明らかにした。「私の主な問題は、もう楽器を吹けないということだ。生き延びてはいるが、問題は楽器を吹けないことなのだ」と、ロリンズは新型コロナウイルスのパンデミック中に『ニューヨーカー』誌に語っていた。

余儀なくされた引退にもかかわらず、ロリンズは2020年に『ジャズ・タイムズ』誌にこう語っていた。「私は今でも、上達し、より良い音を奏で、より良いレコードを作るという希望を持っている。希望は永遠に燃え続けるのだ。過去の音源アーカイブに分け入って、以前に自分がやったものを探そうとするのは、先延ばしにするつもりだ」

ニューヨーク州ウッドストックの自宅に落ち着き、90代を迎えるにあたって、ロリンズは自身のキャリアの避けられない終わりについて語っていた。

「死ぬというのは、おかしなものだ」と、輪廻転生を信じるロリンズは2020年にニューヨーク・タイムズ紙に語っている。
「誰もが死を恐れる。それは未知のものだからだ。だが、私の母も死んだ。父も死んだ。兄も死んだ。姉も死んだ。叔父も死んだ。祖母も死んだ。彼らは皆、素晴らしい人々だった。彼らが死ぬことができたのなら、なぜ私が死ねないというのだ? 私が彼らより優れているとでもいうのか? 『おや、まあ、私は死ぬべきではない』などと感じるのは滑稽なことだ。私の肉体は塵に帰るだろう。だが、私の魂は永遠に生き続けるのだ」

From Rolling Stone US.

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