創成期から48年までは選手が30人に満たなかった。従って「30」は最も大きな番号で、38年の千葉茂を除いて、主に監督がつける番号だった。

初代の三宅大輔は番号をつけておらず、2代目の浅沼誉夫が36年に最初に「30」を背負った。

 アメリカ遠征を終えた同年の5月末には45歳の浅沼が退き、31歳の藤本定義が3代目となる。37、38年は、それまでつけていた「22」を継続した藤本定だが、39年からは「30」になる。

 以後、日本初の3冠王・中島治康が43年に第4代監督に昇進し「30」に。戦争中の44年、戦後間もない46年に監督を務めた藤本英雄をはさみ、46年に中島が同じ背番号で復帰した。

 三原修監督(背番号は31)を経て、2リーグに分かれた50年からは水原茂が第8代監督に就任した。同年こそ3位に終わったものの翌51年から3年連続日本一を達成。55年からもセ5連覇を成し遂げた名将。名前は「茂」から「円裕」に改名することもあったが、背番号の「30」は不変だった。

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