長嶋茂雄さん(享年89)が74年オフ、監督最初のドラフトで、1位で獲得したのが定岡正二さん(68)。背番号20を背負い、甲子園のアイドルとしてすさまじい人気を博したが、投手として長嶋政権の力になるのには時間がかかった。

前編では、その苦悩と、貢献できた時の思いを語る。(取材・構成=湯浅 佳典)

 74年11月19日、長嶋さんが監督として臨んだ最初のドラフトの1位指名が定岡だ。

 「前評判もたいしたことはなかったし、巨人の1位なんて考えもしなかった。ただただ、まさかって。監督と最初にお会いしたのは、入団発表の席上。テレビで見ていた人が目の前に現れた衝撃で、まともに目を見ることができなかった。あいさつをして握手をしたのは確かなんだけど、話をした記憶がない。記念撮影の時、照明やカメラマンのフラッシュがすごくて…。『まぶしいだろ』と言われた言葉だけは覚えてますね。俺は慣れてるけどね、って感じでした」

 鹿児島実で甲子園のアイドルとなり、鳴り物入りで入団。多摩川での自主トレには2万人のファンが詰めかけたという伝説が残っている。

 「自分でも何が起こっているのか、わからなかった。

人の波がうねって、次から次と人がわき起こってくるような。巨人の人気はすごいなと思って驚いていたら、先輩たちに『おまえ(目当て)だよ』と言われて、さらにビックリでした」

 サポートするスタッフなどいない時代。ファンにもみくちゃにされ、選手が乗るバスまでたどり着くのがひと苦労。遅れた定岡さんを冷たい目で見る先輩もいた。ファンを大切にする長嶋さんだが、この期間は特別な計らいや対応はなかったという。

 「まだ何の実績もない、人気だけがある18歳ですもんね。当たり前のことだと思います。でも、その時、監督というのはグラウンドではとても厳しい人なんだ、と感じました。早く1軍に上がってこい、という無言の激励だと思ってました」

 入団後、初めての会話は宮崎キャンプの初日。監督室に呼ばれた。

 「何か悪いことをしたかな、と恐る恐る部屋に入ったら、ユニホームの背中をバーンとたたいて、『この20番をなぜお前にやったか、わかるか? いいな、この背番号通り、将来20勝するんだぞ!』と」

 しかし、その期待にはなかなか応えられない。長嶋さんが監督になって5年間は主に2軍暮らし。

1軍での初勝利は6年目の80年6月5日の中日戦(ナゴヤ)だった。

 「ようやくのプロ1勝ですからね。宮崎キャンプの初日に背中をたたいてもらったように、よくやったとか、頑張ったなとか、もっとワーッと喜んでもらえるかと思ったんだけど…。球場から宿舎に帰るバスの先頭に座っている監督は一言だけでした。『次だ、次が大事なんだぞ』って。1勝で喜ぶなという意味だったと思います」

 80年は9勝を挙げる活躍を見せるが、優勝を逃した長嶋さんは「男のケジメ」として、この年限りで監督を退く。

 「1勝目を見届けてもらうのに、時間がかかってしまった。もっと早く力になりたかったという思いは当然、ありました。人気だけはあっても1軍に行く結果が出ない時は、正直つらかった。でも監督に1位指名してもらった責任は、2軍にいても強く感じてました。20勝するんだぞ、という言葉は常に心にしみこんでいました。その気持ちがなかったら、練習にも身が入らず、早々にクビになっていたかもしれない」(つづく)

 ◆定岡 正二(さだおか・しょうじ)1956年11月29日、鹿児島生まれ。

鹿児島実2、3年の夏に甲子園出場。3年(74年)の準々決勝で原辰徳の東海大相模と対戦。延長15回、213球を投げ切り18奪三振の末、勝利を飾る。同年のドラフト1位で巨人入団。85年、近鉄へのトレードを通告されるが、これを拒否し、29歳の若さで引退した。通算215試合に登板、51勝42敗3セーブ、防御率3.83。

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