長嶋茂雄さん(享年89)が監督に就任し、最初のドラフト1位で指名した定岡正二さん(68)。後編は、トレードを拒否して29歳の若さで引退が決まった際の騒動のさなか、長嶋さんから、かかってきた電話とは…。

(取材・構成=湯浅 佳典)

 長嶋さんが監督を辞任した翌81年に定岡は11勝。82年には自己最多の15勝と江川卓、西本聖とともに3本柱と称される主戦投手に成長する。

 「15勝の時に、もし監督がユニホームを着ていたら、(入団時に約束した20勝に)『あと5つだぞ』と言ってもらえたかも。でも、監督と選手の関係じゃなくなってから、ゴルフを一緒にさせてもらったりして、人間・長嶋茂雄に近づくことができましたね。選手の時は褒めてもらった記憶がない。いや、会話すらほとんど交わしていなかったんだけれど、ゴルフでは同じ空気感を感じて、フランクにつきあわせてもらった。それでも、パットを決める時の勝負強さは、すごかったなあ」

 85年、定岡は近鉄へのトレードを通告されるが、これを拒否し、29歳で任意引退選手となった。

 「騒動は結構、長引きました。マスコミがマンションの外に詰めかけて外へ出られない。相談しようにも、そんな相手もいなかった。悶々(もんもん)としている時に、長嶋さんが突然、電話をくれたんです。そして『アメリカへ行け』の一言。

最初は意味が分からなかったんだけど、ドジャースのオマリー会長やラソーダ監督と親交が深かったからでしょうね。いろいろと便宜をはかっていただき、招待選手のような形で、春のベロビーチキャンプに参加させてもらいました。一戦級の投手たちと一緒に練習し、マイク・ソーシアと試合でバッテリーを組んで、いいスライダーだと褒めてもらいました」

 約1か月のド軍経験。3Aに残って挑戦を続けたら、という申し出もあったそうだが、諸事情もあり丁重にお断りをした。

 「あの時の長嶋さんの優しさが忘れられません。人生最大のピンチにサッと出てきてくれた。人が困った時に手を差し伸べる生き方ができる人なんですね」

 たくさんの思い出の中で、あえて一番は?と聞いてみた。

 「僕が最後に対戦した投手、ということですね!」

 17年11月4日。長嶋さんの地元・佐倉で14年から開催されていた「長嶋茂雄 少年野球教室」の第4回だった。始球式で定岡が投げ、長嶋さんが打席に立った。国民栄誉賞の表彰が行われた13年5月5日(東京D)で同じように松井秀喜さんが投げた時、高めのボールで長嶋さんのバットは空を切った。が、定岡との勝負では痛烈なショートへの当たりだったという。

 「『下から投げましょうか』と聞いたら『何、言ってんだ』と怒られました。左手一本でバットを構えた時の、あの鋭い眼光。打者・長嶋茂雄を感じさせてもらえました。体に当てちゃいけないとマウンドで一番緊張しましたけど、堂々たるヒットでしたよ。松井の時は空振りして本当に悔しそうだったでしょ。それが故郷で、しかも大勢の子どもたちの前で打ったヒットで、とてもうれしそうでした。僕自身も、打たれてうれしいヒットは、生涯であれだけでしたね」

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