男子テニスで、アジア男子最高の世界ランキング4位に上り詰め、2014年全米では準優勝に輝いた錦織圭(36)=ユニクロ=が、今季限りでの引退を決めた。1日、自身のSNSで発表。

「正直に言えば、今でもコートに立ち続けたい気持ちはあります。それでも、これまでのすべてを振り返ったとき、『やり切った』と胸を張って言える自分がいます」と心境をつづった。最後の大会は、まだ決めておらず「残りの試合も、一瞬一瞬を大切に、最後まで戦い抜きます」としている。

 引退を決めた不世出の才能の原点は、約30年前の松江から始まる。

 テニスを始めて5歳ごろの写真がある。錦織の手に握られているのは、子供用のラケットだ。都内の大学の同好会でテニスを楽しんでいた父・清志さんは卒業後、郷里の松江で就職。会社の慰安旅行で訪れたハワイで、家族へのお土産を探す中、見つけたのが約3000円の、その子供用のラケットだった。

 母・恵理さんはピアノの講師で、土日にレッスンが集中した。必然的に、清志さんが週末の子供の相手をすることが多くなった。圭が1歳の頃、アトピー性皮膚炎を発症し、ぜんそくにもかかった。テニスは、大学時代に楽しんだスポーツだ。

健康にもいいし、圭の姉・玲奈さんとともにテニスをやって遊ぼう、となった。

 当時、島根には、関東や関西に比べ、本格的な指導者が多くはなかった。しかし、逆にそれが圭の豊かな創造性を生んだと清志さんは信じている。ジュニア時代から見せていた突然のドロップショットやネットプレーは、楽しむ遊び心から生まれたものだ。

 錦織家にとって、いくつか発売されていたテニス専門誌は、格好の指導書だった。多くの写真を見てトップ選手にあこがれ、いつかは世界に、と夢見た。清志さんが、悪童と呼ばれたマッケンロー(米国)のまねをして球を送ると、圭はフェデラー(スイス)をまねて返球した。

 その子供用のラケットが大人用に変わり、日本で最も強い小学生となった頃、圭はまるで旅行に行くかのように、米フロリダ州にあるIMGアカデミーへ向け、松江を旅立った。2003年9月11日のことだった。

 その前日、清志さんは圭を、松江の城下町にある堀を小船で巡る「堀川めぐり」に誘った。無口だった圭に、清志さんは「いつでも戻ってきていい」と声をかけたという。携帯電話はあえて持たせなかった。

テニスに集中してほしかった。家族も圭も、それだけの覚悟を持っていた。

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