名古屋場所10日目の夜、白鵬は師匠と部屋の力士たちに今場所限...の画像はこちら >>
向正面から世界が見える~
大相撲・外国人力士物語
第10回:白鵬(1)

2021年名古屋場所(7月場所)後に、21年間の土俵人生にピリオドを打った第69代横綱・白鵬。2000年秋に、モンゴル・ウランバートルから来日。

2001年春場所(3月場所)、15歳で初土俵を踏んだやせっぽっちの少年は、時を経て大横綱となり、"綱"を14年間つとめ上げた。

現在は間垣親方として、本場所の場内警備や、所属する宮城野部屋の若手力士への指導など、精力的に活動している。大横綱・白鵬が万丈の土俵人生とこれからの自身について語る――。

        ◆        ◆        ◆

「今場所の千秋楽限りで、現役を引退させていただきます」

 師匠(宮城野親方=元幕内・竹葉山)と部屋の力士たちに、私がこう告げたのは、名古屋場所10日目の夜のことでした。

 突然の発表に、みんなは驚きを隠せない様子でしたが、これは私が考え抜いた末の決断です。

 ここ数年、ヒザの負傷などで思うような相撲が取れなくなった私は、今年3月、2度目の右ヒザ手術に踏み切りました。

そこからリハビリを重ねて臨んだ名古屋場所、初日を迎えるまでは、「はたして、横綱としての相撲が取れるのだろうか......」と不安でたまりませんでした。

 初日の明生戦をなんとか白星で発進して、そこからの一番、一番は、毎日が苦しかったですね。中日にストレートで勝ち越したあとは、10番(10勝)を目標に置きました。なぜなら、横綱として出場している限り、「ふた桁(10勝)は勝たなければ......」というポリシーがあったからです。

 10日目、ベテラン隠岐の海を寄り切りで制して、目標の10勝を達成。それを受けて、お世話になった周りの人たちに、自分の意志を表明したわけです。

 この時点で、私は全勝でした。でも、照ノ富士も全勝でしたし、"優勝"を見据えていたわけではなかったんですよ。

 14日目は大関・正代戦。前日から何度も対戦のシミュレーションをしてみましたが、正代に勝てるイメージがまるで湧かない。

 結局、ほとんど眠れずに朝を迎えたのですが(笑)、"勝つ"ために取ったのが、立ち合いで、相手に当たらないでいくという作戦でした。仕切り戦から大きく後ろに下がって仕切ったのは、土俵人生であの相撲だけですが、変則的な立ち合いが功を奏して、14連勝。

 こうして、千秋楽、優勝をかけてモンゴルの後輩でもある、照ノ富士との全勝対決に臨むことになりました。

「最後」と決めたこの日は、東京から家族を呼び寄せていました。4人の子どもたちは、私の引退を受け止め切れなかったようですね。「パパ、お相撲、やめないで......」と言われるのは、本当につらかった。

 結びの一番、呼び出しさんに四股名を呼び上げられた時には、これまで支えてくださった多くの人たちの顔、土俵への感謝の気持ちが込み上げてきました。土俵に上がる直前に、土俵に額をつけたのは、土俵への感謝の思いからなんです。

 相撲は張り合いになり、意地のぶつかり合いを経て、最後は小手投げで私の勝利となりました。その瞬間、私は無意識のうちに雄叫びを上げ、ガッツポーズをしていました。

 花道の奥で見守っていた付け人たちに視線を送ると、彼らは泣き出しそうな顔をしていましたね。この場所は初日から、部屋の後輩、炎鵬が関取であるにも関わらず、私の付け人を志願。一緒に15日間を戦いました。

 みんなで勝ちとった優勝だったと思いますし、優勝して引退できた私は幸せだったと思っています。

名古屋場所10日目の夜、白鵬は師匠と部屋の力士たちに今場所限りの引退を告げた

引退を決めた名古屋場所では、千秋楽で照ノ富士(右)との全勝対決を制して45回目の優勝を飾った白鵬(左)

 モンゴル・ウランバートルで生まれ育った私は、5人兄姉。中学に入るまで、父母と一緒に寝ていたくらい、甘えん坊な子どもでした。

 父はモンゴル相撲の横綱をつとめていて、レスリングのモンゴル代表選手でもありました。1964年の東京オリンピックでは7位、メキシコオリンピックでは銀メダルを獲ったこともあって、自宅にはモンゴル相撲の力士が出入りしていました。

 その頃、NHKのドキュメンタリー番組の取材で、二子山元理事長(当時、相撲博物館館長=元横綱・若乃花)がモンゴルにいらしたんです。父との対面もあって、その時、私も理事長とお会いして、日本のお菓子をいただいたんですよ!

 中学生になると、モンゴル人力士のパイオニア・旭鷲山関、旭天鵬関(現・友綱親方)が大相撲で活躍する場面をテレビで見ていました。

大相撲の記事が載っている日本の雑誌も家にあって、それを眺めるたびに、「相撲取りって、カッコいいなぁ」と思うようになったんです。

 でも、当時私が夢中だったのは、バスケットボール。12歳からはレスリングも始めました。

 レスリングでいい成績を収めた時もあったのですが、父は「レスリングじゃなくて、バスケをやりなさい」と言うんです。あとから聞いたのですが、私の将来を考えて、2つの理由からバスケットボールを勧めたのだそうです。

 レスリングをやり過ぎて、早い時点で体が固まってしまわないように。心の面では、あまり強くない時期に強い人に投げつけられて気持ちが萎縮してしまわないように。

 そうして、「日本に行って、3カ月の間、相撲の基礎を教えてもらえる」。そういう話があったのは、2000年の夏頃です。

 父から、東京オリンピックの話を聞いたり、日本の恋愛ドラマを見たりして、憧れていた日本。お相撲さんにも会えるかもしれないし、チャンスがあれば行ってみたいな......。その「チャンス」が巡ってきたんです。

 私を含めた7人の少年が、日本に向かうことになりました。大阪で実業団相撲チームを持つ企業(摂津倉庫)の稽古場で、相撲の指導を受けていたのですが、一緒に日本に来たメンバーは、次々に相撲部屋の親方からスカウトされていくんです。

 確かに私はメンバーのなかで、一番年下で、体も細かったのですが、「なんで自分には声がかからないんだろう?」と、焦ってきましてね......。そうこうしているうちに、モンゴルに帰国する前日になっていました。

 それは、「さよならパーティー」の最中のことでした。宮城野親方から、入門を打診する電話が入ったのは......。帰国ギリギリのところで、声をかけてくださった宮城野親方には、今でも感謝しかありません。

(つづく)

白鵬 翔(はくほう・しょう)
第69代横綱。1985年3月11日生まれ。モンゴル出身。幕内優勝45回を誇る大横綱。2019年、日本国籍を取得。2021年9月、現役引退を発表、年寄・間垣襲名。