辻発彦は現役・コーチ時代に4人の名将の薫陶を受けている。西武の黄金時代を築いた広岡達朗、森祇晶。

ヤクルトの監督として90年代のセ・リーグを牽引した野村克也。そして現役引退後は、落合博満のもとコーチとして中日黄金期を支えた。この4人のそれぞれの野球観について語ってもらった。

辻発彦が語る広岡達朗、森祇晶、野村克也、落合博満の4人の名将...の画像はこちら >>

西武の黄金時代を築いた広岡達朗と森祇晶

【広岡野球と森野球】

── 広岡監督と森監督の相違点はどこにありましたか。広岡監督は82年に西武の監督に就任し、4年間でリーグ優勝3回、日本一2回を達成。あとを継いだ森監督は86年に就任し、9年間でリーグ優勝8回、日本一6回。辻さんは84年に入団しています。

 ひと言で表現するのは難しいですが......まず、その監督の時代の"戦力"ですよね。自らのチームの戦力を知ることが最初で、そこから勝つためにどうするのか。それによって戦い方が変わってくると思うんですよ。

 広岡監督の時は、田淵幸一さん(~84年まで現役)、山崎裕之さん(~84年まで現役)、片平晋作さん、高橋直樹さんら他球団から移籍してきた大ベテランが中心でした。そこに石毛宏典さん、私、秋山幸二工藤公康ら、生え抜きの若手が融合していきました。広岡監督がベテラン選手をうまく操縦し、若手を育成し、組織をつくり上げていく段階での、いわゆる"管理野球"だったのだと思います。

── その後、86年から森監督がチームの指揮を執ることになります。

 そういう下地があって、森監督へ移行しました。チームもベテラン選手が引退し、石毛さんを中心として、私や秋山、伊東勤らの世代へと変わっていきました。「相手の嫌がることをやる」のが勝利への近道という意識のもと、厳しいなかで練習を積み上げていき、「プロ野球の世界で勝つにはこうやるんだ」という必勝法を叩き込まれました。

 ほぼ毎年リーグ優勝し、日本シリーズに駒を進めました。レギュラーが確立され、森監督は私たちを大人扱いしてくれました。

そういう意味で、広岡さんから森さんに代わったのは非常にいい流れであり、タイミングだった気がします。

── 広岡さんが指揮を執っていた時以上に、森監督の野球は手堅いと言われていました。

 戦い方として、投手力がよかったら、初回から送りバントをしますよ。当時は「西武打線に1点奪われたら、あの強力投手陣から2点とるのは厳しい」というくらい、相手チームは意気消沈していましたから。

 森監督は、投手の使い方がうまかった。先発で投げた工藤、渡辺久信らを、そのあとの試合ではリリーフに持っていく。

投手陣が若かったからできたというのはあったかもしれません。とくに日本シリーズの短期決戦では"必勝パターン"をつくるという思いきりがありました。

【野村監督のボヤキは学びの宝庫】

── ヤクルトに移籍した97年から野村監督のもとでプレーすることになります。森監督と野村監督は現役時代、ともに名捕手として活躍されましたが、ふたりの違いはどこにありましたか。

 森監督は伊東に対して、野村監督のようなあんなブツブツと説教はしていませんでしたね。古田(敦也)は相当言われていたみたいですから(笑)。でも、野村監督のつぶやきはすごいですよ。

ベンチでブツブツといろんなことを言いながら、選手にヒントを与えているんです。だから私も、ベンチで耳をそばだてて聞くようにしていました。

 野村監督は選手操縦法がうまく、人身掌握術に優れていました。選手をたびたび褒める監督ではありませんが、話術に長(た)け、マスコミを通して選手を褒め称えます。「自分には何も言ってこなかったけど、認めてくれていたんだな」と、褒め言葉を新聞で読んだり、記者に聞いたりすると、それはうれしいものですよ。

── 西武退団時、野村監督と当時ロッテのGMだった広岡達朗さんに誘われましたが、最初に声をかけてもらったこと、そして「ノムラ野球」を知りたかったという理由で、辻さんがヤクルトを選んだと聞いたことがあります。

 私は東尾修監督時代の95年シーズンを最後に、西武を退団することになり、真っ先に森さんに相談しました。「現役引退し、コーチ就任を打診されたので、自由契約にしてもらいました」と。すると、「そうか、じゃあちょっとノムさんに電話してみるわ」と言って、その後、森さんから連絡がきました。「ノムさんが『辻がヤクルトに来てくれるなら大歓迎』と言っていたよ」と。

 西武であと1年、38歳までやりたいなと思っていたのが、ヤクルトで4年間もプレーさせてもらい、結局41歳のシーズンまで現役でできました。しかも97年には、古巣・西武との日本シリーズも経験させてもらいました。森監督にも、野村監督にも感謝しています。

【三冠王監督がたどり着いた守りの野球】

── 現役時代に三冠王を獲得した野村監督と落合監督は、交流戦の時によく監督室で対談し、「野球は投手力を含めた守り」であると、話し合っていたそうです。このふたりの監督について、野球の違いはありましたか?

 ふたりとも攻撃のサインはあまり多いわけではありません。基本的にオーソドックスな戦い方をしますし、あまり動きません。あえて言えば、野村監督はどちらかと言えばネガティブ。だから「失敗したら......」という言葉が先に出てきます。失敗から逆算して考える感じですね。ただ個人的には、ネガティブな人間のほうが監督に向いているのではないかという気がします。なぜなら、まずリスクを考えて、それを回避しようと慎重になりますから。

 FAやトレードでチームの戦力が変わるなか、長い143試合のペナントレースを戦うには「投手力を含めた守り」が、最も重要になってきます。そこが安定したなかで「打つ」「打たない」の出来が勝敗に関わってくると思います。ふたりとも、そこは共通した考えでしたね。

── 長いシーズンを戦うには、やはり投手力が重要だと?

 投手陣が不安定で、劣勢になるとどうしても作戦面でも無理が生じてきます。たとえば、確実にランナーを送って1点をとりにいけばいいところを、強行策に出て裏目に出てしまう......そんなことはよくあります。"打つ"というのは、計算が立ちません。だから、「打ち勝つ」というのは続かないものです。逆に、"守り"というのは計算が立ちます。だから、投手陣を含めた守りの野球は理想であり、目指すところです。

── ただ、辻監督が率いていた西武は"山賊打線"と評された強力打線がウリのチームでした。

 いい投手陣を揃えるのは、簡単ではありません。だから、2018年はチーム打率.273(リーグ1位)、防御率4.24(リーグ6位)、2019年はチーム打率.265(リーグ1位)、防御率4.35(リーグ6位)と、強力打線を前面に押し出して戦うしかありませんでした。18年、19年はリーグ連覇を果たしましたが、3連覇、4連覇とは続かなかった。かつての巨人V9や西武の黄金時代は、投手を中心として守備力があっての攻撃でした。

── 名手だった辻さんが、現役引退後に2007年から落合監督率いる中日に招聘されたのも、守備の意識を選手に植えつけたかったからでしょうか。

 落合監督は私より5歳上。私は、最初は二軍監督でしたが、誰を一軍に送り込めるかという連携を大事にしていました。そして優勝した2010年、11年は一軍コーチでした。打てなかったですが、投手力がよかった。投手がしっかり踏ん張って、打線は走者が出たら1点、2点をコツコツとる。守備、走塁面を強化したのがリーグ優勝できた要因だと思います。