名物実況アナ・若林健治が振り返る

「あの頃の全日本プロレス」(2)

(連載1:ジャイアント馬場は言った「UWFは人に見せるものじゃない」>>)

 1972年7月にジャイアント馬場が設立した全日本プロレス。旗揚げから2000年6月までは、日本テレビがゴールデンタイム、深夜帯など放送時間を移しながらお茶の間にファイトを届けた。

そのテレビ中継で、プロレスファンに絶大な支持を受けた実況アナウンサーが若林健治アナだ。

 現在はフリーアナウンサーとして活動する若林アナが、全日本の実況時代の秘話を語る短期連載。前回のジャイアント馬場に続く第2回は、団体の草創期から平成時代までを支えたジャンボ鶴田

ジャンボ鶴田を変えた天龍源一郎との「鶴龍対決」 そのラストを...の画像はこちら >>

鶴龍対決の7戦目で、鶴田(左)に延髄蹴りを見舞う天龍

【鶴田の太ももは世界一。だが......】

 鶴田は中央大レスリング部時代、1972年に行なわれたミュンヘン五輪に出場。華やかな実績を引っ提げ、同年10月に全日本プロレスに入団し、翌1973年3月に米国でデビューを果たした。



 身長196cm・体重125kgの恵まれた体格と、抜群の運動神経とプロレスセンスで、ジャイアント馬場に次ぐ若きエースになり、インターナショナルタッグ王座やUNヘビー級王座を奪取。1983年8月にはブルーザ・ブロディを破り、力道山から馬場が獲得したインターナショナルヘビー級王座を腰に巻いた。さらに1984年2月には、ニック・ボック・ウィンクルを破って日本人初のAWA世界ヘビー級王座を獲得し、名実ともに全日本のエースとなった。

 1984年5月から「全日本プロレス中継」を担当した若林アナが鶴田を初めて見て驚いたのは、その"肉体美"だった。

「あんなにきれいな太ももを持つレスラーはいません。たくましくて、しかも柔らかくてバネがある。
プロレスだけでなく、他のどの競技にもあれほどの太ももの選手はいないでしょう。世界一です」

 鶴田の太もものすごさを力説した若林アナだが、そのファイトスタイルには疑問を持っていたという。

「こういう表現は失礼かもしれませんが、リング上で"のほほん"としていたんです。プロレスへの必死さが見えてこない。もしかしたら、馬場さんの影響があったかもしれませんが、全日本のリングにジャイアント馬場はふたりいらないんですよ。ですから、私は鶴田選手の試合を実況しながら、『もっと、もがかなきゃ』と思っていました」

【鶴田と天龍は「両極端」】

 馬場が掲げる「受け身」を重視する王道スタイルを、そのまま表現した鶴田。それは、アメリカのマットでは通用するプロレスだったが、当時の日本では"魅せる"要素に加え、観客に"闘い"を感じさせるスタイルがファンには好まれていた。



 若林アナが鶴田の変化を感じたのは、1987年のことだった。

 1985年1月から全日本のマットに参戦していた、長州力率いる「ジャパンプロレス」が1987年3月いっぱいで分裂し、長州らが新日本プロレスに復帰。全日本のリングに熱を生み出していた日本人対決がなくなって"空洞化"した。

 その穴を埋めようと立ち上がったのが天龍源一郎だった。阿修羅・原と2人で行動を起こし、鶴田に刃を向けた。地方興行でも手を抜かない全力ファイトを展開し、それは「天龍革命」と呼ばれ、沈滞した全日本のリングが再び熱を帯びるようになった。


 そして、1987年8月から始まった鶴田と天龍の一騎打ち「鶴龍対決」が全日本の看板カードになった。鶴田も感情を前面に出すようになり、さらに強さを増していったが、若林アナは「鶴田さんを本気にさせたのは、天龍さんの行動だったと思います」と振り返る。

 ただ、「ふたりはリングを離れても両極端」と感じる思い出があるという。

「ある日、鶴田さんたちと日本テレビのスタッフとで、中華料理店に行ったことがあったんです。その時、鶴田さんは北京ダックなど高価なメニューを食べていて、『若林さんたちも北京ダック食べてよ』と勧められたんです。

 ところが、鶴田さんの付け人のようにその場にいた渕正信選手は、五目そばを食べていたんです。
私はその姿を見て、心の中で『なんで渕には五目そばなんだ。渕にも北京ダックを食べさせてやれよ』と思いました」

 そんな若林アナの気持ちを察したのか、鶴田は渕にこう言ったという。

「いいか、渕。北京ダックを食べられるように早く強くなれ」

 後輩レスラーに対しての待遇を厳しくし、そこから這い上がろうとさせるのが鶴田式の育て方なんだ、と若林アナは実感したという。

 一方、天龍は違った。

「私が当時、東京の砧にあった全日本の合宿所に取材に行った時のことですね。

若手選手がちゃんこを作っていると、天龍選手が『今日のちゃんこは何だ?』と聞いたんです。その日は鳥のつくね鍋だったんですが、天龍選手は『バカ野郎!俺に恥をかかせるな。若林さんが取材に来ているんだぞ。牛肉を買ってこい』と命じたんですよ。

 でも、若手選手が『会社から用意されている"ちゃんこ銭"がないんです』と言うので、天龍選手は自分の財布を渡して『これで買って来い』と言ったんです。あの人は、若手選手に『たばこを買ってこい』と命じる時も常に万札を渡していた。それで、おつりは受け取らない。それらはすべて、若手選手のお小遣いになるんですね。そういう点でも人望を集めたんです」

 天龍は1990年4月に全日本を退団し、新たに大手眼鏡チェーン店「メガネスーパー」が設立した団体「SWS」に移籍。SWSには天龍を追って全日本から大量の選手が移った。ギャランティーが大幅にアップしたことが、その背景にあるとも伝えられているが、若林アナは、若手選手への面倒見のよさゆえに「多くの選手が天龍さんについていった」と見ている。

【もっと鶴龍対決を伝えたかった】

 そんなふたりが真っ向から激突した「鶴龍対決」は、1987年8月31日から7戦にわたって行なわれた。若林アナは、全日本プロレス史に残る名勝負のラストマッチを実況している。

 お互いに3勝で迎えた1990年4月19日、横浜文化体育館での一騎打ち。鶴田が持つ三冠ヘビー級王座に天龍が挑戦した一戦は、天龍の入場時にスタン・ハンセンが襲撃するハプニングでスタート。入場を控えていた鶴田が慌ててリングインし、ハンセンをリングから降ろした。

 ハンセンに急襲された天龍の様子を伺うように近づいた鶴田に、天龍が張り手を見舞った。そこから感情むき出しの激闘に、若林アナも「夢見る男たちに幸いあれ」という言葉を叫ぶ。そして試合は、バックドロップホールドで鶴田が勝利。この試合を最後に、天龍はSWSへ移籍することになる。

「私は『これから、さらに鶴田選手と天龍選手の名勝負を実況できるぞ』と燃えていたんですが、あの試合で最後になってしまいました。天龍選手が全日本を退団するなんてことはまったく知りませんでしたよ。ですから、あの退団の報道が出た時はショックでした。もっと鶴龍対決を伝えたかったですね」

 若林アナにとって不完全燃焼となった「鶴龍対決」だが、その数日前、天龍の魅力をあますことなす実況した名勝負があった。

(敬称略)

◆連載3につづく>>

【プロフィール】
若林健治(わかばやし・けんじ)

1958年、東京都生まれ。法政大学法学部を卒業後、1981年に中部日本放送に入社。1984年、日本テレビに入社。数々のスポーツ中継を担当するほか、情報番組などのナレーターとしても人気を博す。2007年に日本テレビ退社後は、フリーアナウンサーとして活躍している。