河埜和正インタビュー(前編)

 ON(王貞治氏、長嶋茂雄氏)、原辰徳氏、松井秀喜氏らをはじめ、巨人は球界を代表するスター選手を数多く輩出してきた。その一方で、いぶし銀の働きでチームを陰から支えた名選手も多い。

70年代から80年代にかけて、巨人の遊撃手として活躍した河埜和正氏もそのひとりだ。川上哲治氏、長嶋氏、藤田元司氏、王氏という4人の監督のもとでプレーし、巨人の栄枯盛衰を知る貴重な人物である。引退後はコーチ、スカウトを歴任し、その後も「ジャイアンツ・ベースボールアカデミー」の校長を2015年まで務めるなど、まさに巨人一筋の生活を送った。そんな河埜氏に巨人入団までの経緯、現役時代を振り返ってもらった。

巨人ショートのレジェンド河埜和正は、中学時代はバレー部、高校...の画像はこちら >>

【中学では1日で野球部を退部】

── 河埜さんは野球王国・愛媛のご出身ですね。

河埜 小学4年でソフトボールを始めました。中学も軟式野球部に入ったのですが、1日で辞めました。

一生懸命球拾いをしていたのに、連帯責任でケツバットされたのが、子供心に理不尽だなと感じて。

── 野球部を辞めたあとは?

河埜 9人制(当時)だったバレー部に入り、3年時には愛媛県大会で優勝しました。バレーのジャンプやレシーブは、のちの野球のダイビングキャッチに役立ちました。バレーも楽しかったのですが、野球への思いは断ち切れませんでした。

── それで高校では再び野球部に?

河埜 偶然、隣に住んでいた八幡浜工高の野球部長に誘われて、硬式ボールを握ることになったのです。2年までは捕手でしたが、3年になって初めてショートを守りました。

甲子園にも縁がなかったですし、遊撃手生活はわずか半年でした。

── 中学3年間のブランク、実質半年だけの遊撃手......。それでも1969年秋のドラフトで指名されたのですね。

河埜 高校3年の夏、井上明がエースの松山商が太田幸司(元近鉄ほか)を擁する三沢高(青森)を決勝で破って、全国制覇を成し遂げました。当時の松山商の一色(俊作)監督がプロのスカウトに「ウチの井上、谷岡潔(元大洋)以外にも、八幡浜高の藤沢公也(元中日)や八幡浜工高の河埜とか、いい選手がいますよ」と話してくれたそうなんです。それで巨人から6位指名を受けて入団しました。

── 河埜さんは定位置よりも2、3歩うしろで守られていました。肩がよかったからその位置で守れたと思うのですが、強肩になったきっかけは何だったのですか。

河埜 祖父が所有していた山があって、そこで採れた薩摩芋を背負子(しょいこ)に載せて、何往復もしたことで足腰、そして肩が鍛えられたのだと思います。あと、中学時代にやっていたバレーのスパイクも影響したのかもしれません。プロ入り後は、76年、77年と日本シリーズで戦った阪急(現・オリックス)の強肩遊撃手・大橋穣さんとよく比較されたものです。

── 目標としていた遊撃手はいたのですか?

河埜 当時のテレビ中継は巨人戦ぐらいでしたから。

ブラウン管越しに王貞治さん、長嶋茂雄さん、広岡達朗さんのプレーを見て、プロ入り後は先輩遊撃手の黒江透修さんを目標にしていました。

── 弟の敬幸さん(八幡浜工高→73年ドラフト3位で南海入団)もプロ野球選手で、ともに「1000試合出場、1000安打」をマークされています。

河埜 4歳下なので、一緒にキャッチボールをしたこともあまりなかったですし、弟がプロ入りするとは思っていませんでした。プロ入り後に会っても「お互い何歳までやれるかな」と話す程度で。当時のプロ野球は交流戦もなく、パ・リーグの選手との交流はほとんどなかったですね。

── ご家族は喜んでおられたんじゃないですか。

河埜 四国は野球が盛んな土地柄ということもあって、父は喜んでくれました。私の家族はみな運動神経がよかったようで、姉は陸上で全国大会出場の経験があります。

【川上哲治からのアドバイス】

── 巨人のV9は1965年から73年までです。河埜さんは69年のドラフトで指名され入団しますが、当時の川上哲治監督はどんな雰囲気でしたか。

河埜 ひと言で表現すると、威厳がありました。私は72年まではほぼ二軍だったので、憧れの川上監督、王さん、長嶋さんと話す時は緊張して、直立不動でした。

今でもそれは変わりません。当時のチームは、試合前のミーティングは牧野茂ヘッドコーチが中心となって行なっていました。川上監督はチームの気が緩んでいる時だけ、王さん、長嶋さんの名前を出して、気を引き締めていました。

── 74年、河埜さんへの死球に抗議した川上監督が、生涯唯一の退場処分を受けます。

河埜 あの"退場事件"ですね。いつも打撃コーチや先輩方から「死球を受けたぐらいで痛がるな」と言われていました。だから、あの大洋戦での死球の時も、痛くないそぶりをしていたら、球審は「ファウル」のジャッジ。「冗談じゃないよ」と思って、アンダーシャツを捲り上げると、当たった箇所がみるみるうちに腫れてきたんです。それで川上監督が出てきて、「河埜がこんなに説明しているのに、何を言っているんだ!」と猛抗議して審判を小突き、退場処分となったのです。交代した私と川上監督は、川崎球場の狭いロッカー室で無言のまま異様な雰囲気で試合終了を待っていました。川上監督には本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

── その74年は119試合に出場してレギュラーに定着。大洋戦でジョン・シピンのライナーを好捕し、レギュラーの座を確実にしたと言われています。

河埜 ライナー捕球をマスコミが大げさに書いただけじゃないですか(笑)。ライナーを捕る、捕らないはタイミングですからね。これもバレーボールの経験が役に立ったのかもしれません。

 あの当時、川上監督はこんなアドバイスをくれました。「河埜、しゃかりきに打たなくてもいいぞ。三遊間のゴロを捕って、アウトにしてくれ。ヒットをもぎとることは、ヒット1本打ったのと同等の価値があるんだ。おまえは守るだけでメシが食えるようになるから。周りを見てみろ、1番から打つヤツがたくさんいるだろう」と。そういうことを言ってもらって、「打たなきゃレギュラーを奪われる」という不安が消え、気がラクになりました。

── そうした気持ちの余裕が、74年の「(2試合にまたがっての)3打席連続三塁打」の日本記録を生んだのかもしれないですね。

河埜 広い甲子園球場だったので、左中間、右中間を抜けたら三塁まで狙おうと思っていました。

── そういえば河埜さんは打席に入る時、バットでホームベースを3回叩くルーティンがありましたね。

河埜 真ん中、外角、内角の順にミートポイントを確認していたんです(笑)。

後編につづく>>


河埜和正(こうの・かずまさ)/1951年11月7日、愛媛県生まれ。69年、八幡浜工高からドラフト6位で巨人に入団。強肩・巧打の遊撃手として活躍し、74年にダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)、77年にベストナインを獲得した。86年のシーズンを最後に現役引退。その後は、巨人のコーチ、スカウトを歴任し、巨人が運営する「ジャイアンツ・ベースボールアカデミー」の校長も務めた