井上尚弥・中谷潤人へとつながる日本リングのDNAたち12:川島郭志
人呼んで「アンタッチャブル」。なるほど、このサウスポーの"魅せる"ディフェンスは、日本ボクシング史上でも群を抜く。
(文中敬称略)
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【わが闘争は、守りのみにあらず】
下知識がなく、川島郭志と会ったとしたら、元ボクサー、それも3年近くも世界チャンピオンであった人物とはとても思えない。外見もそうなのだが、語り口も穏やかだ。取材者がどんな意地悪な質問をしても、その口調にはいっさいの変化が見えてこない。だから、ついつい調子に乗って、ボクサーに対して禁句混じりのこんなことも聞いてしまう。
「失礼ながら、"打たれて強いとは言えない"川島さんが、間一髪で相手のパンチを空振りさせていく。だから、毎回、取材席で手に汗を握ってました」
「ああ、そうですか」と、川島はいつも受け流してくれたものだ。
その守備力が大きく飛躍するきっかけは、キャリア序盤にあった。プロデビュー1年目、1988年暮れの東日本新人王戦スーパーフライ級決勝では、アマチュア時代からのライバル、ピューマ渡久地(ビクトリー=当時)の力感あふれるアタックに最終6ラウンドに崩れた(KO負け)。それから半年、中堅どころの川島光夫(聯合)にもあまりに痛い初回KO負けを喫してしまった。
ずっと「打たせないで打つ」をテーマにボクシングに取り組んできた川島が、さらに守りに重点を置いたことは想像に難くない。
もちろん、パンチを受け止めたり、弾き返すブロッキングやパーリング(相手のパンチの軌道を自分の手やグラブで軽く叩いて変える技術)を重視しているが、川島のディフェンスの魅力は、空振りを誘う技にある。頭部、上体を小さく動作させるヘッドスリップ、スウェーバックで、センチ、ミリの単位で被弾からエスケープする。ときには、強引に振ってきたパンチを、打ち込まれた側とは逆の方向に大きく顔をそむけて台無しにしてしまう、スリッピングアウェーという大技も見せた。
守りの妙技を補完する動きも見事。滑走するように左右に移動するフットワークで、自分が打ちやすく、相手が打ちにくい場所、角度をすばやく奪い取った。それらが一体となって初めて川島のアンタッチャブル・ネットワークはハイクォリティに機能する。そんな、勇敢でアグレッシブ、さらにスリリングな川島の防御システムは、今、映像を見返しても、つい口笛を吹きたくなるほどすばらしい。
会って話を聞くごとに、そんなことを話していたら、一度だけ、川島はこんな"苦情"を口にした。
「(評価は)ありがたいんですけどね。自分、世界チャンピオンになる前は、ほとんどKO勝ちなんですけど」
そうなのだ。ホセ・ルイス・ブエノ(メキシコ)を判定に破って初めて世界タイトルを奪った試合、挑戦者としてリングに立ったときの戦績は13勝12KO(2敗1分)だった。
「スパーリングの川島は、いつも、"すげぇ"倒し方をするんだ。こっちも、負けてられないなって、いつも対抗意識を燃やしていたんだ」
一代の技巧派、川島郭志が目指していたのは、「打たれないで打つ」ではない。あくまでも「打たれないで倒す」だった。
【完成度の高い高校生ボクサーが知った挫折】
いまどき、父と子の二重奏でボクサーとしての大成を目指すことは珍しいことではない。兄弟3人が世界王者となった亀田家、そして最強のボクサーと、堅実な実力派王者を育った井上家。海外にも世界1位の祖父と世界王者の孫が登場したマンシーニ家三代(米国)、初の親子世界王者となったグティ・エスパダス(メキシコ=父子は同名)などよくあるケースなのだが、日本ではなかなかボクシングファミリーは根づかなかった。だから、川島家はそんなパイオニアとも言えるものだった。
トレーニングを始めたのは物心がつく以前だったという。
幼年期から積み立てた経験が花開くのは高校生の時だ。海南高校3年生で出場したインターハイフライ級準決勝で、2年生時にチャンピオンになったのちの世界王者、鬼塚隆(勝也/豊国学園)、決勝ではプロでピューマと名乗る渡久地隆人(興南)を破って優勝する。その強さ、巧さは当時からとんでもなくハイレベルだった。歯切れのいい攻めが持ち味の鬼塚に何もさせずに完封。決勝の渡久地戦でも、相手の出方を最初の2分間で読み解き、その後はタイムリーヒットを連発していった。これが高校生のボクシングかと驚くほど、攻防ともどもに大人びていた。
高校卒業後は、相模原ヨネクラジムからプロ入りするが、東京・目白にあったヨネクラジムで修行を重ねた(その後、正式に移籍)。ただし、キャリア序盤の大きな躓(つまず)きで、一緒にプロ入りした鬼塚、渡久地に比べると大きく後れを取った。さらに左拳を骨折し、1年以上ものブランクを作り、ファンにも忘れ去られた。デビュー当初、鬼塚、渡久地とともに『平成三羽ガラス』の一角を占めていたのだが、その座は辰吉丈一郎(大阪帝拳)に取って代わられる。
【打たせないこと----戦いの究極の哲学】
1994年5月4日、横浜文化体育館。川島はWBC世界スーパーフライ級チャンピオン、ホセ・ルイス・ブエノ(メキシコ)に挑む。与しやすい相手ではない。攻撃的、かつテクニカル。24歳とまだ成長期にあり、つい半年前に豪打で知られた文成吉(ムン・スンギル=韓国)を敵地で破ってベルトを手にした勢いもあった。そして何より、その後も含めると30人以上もの世界チャンピオンを育てた名伯楽ナチョ・ベリスタインの教え子である。
戦いはペース争いが続いた。海外のメディアではクロスファイト、あるいはブエノ優位の展開という評も見かけるが、私にはそうは見えなかった。厳しい技術戦のなかでも、着実に主導権を握っていたのは、堅実な守りに裏打ちされた川島の正確なヒットだったと思う。そして11回、左ストレートで痛烈なダウンを奪い、勝利を決定的なものにした。
その後は力のある挑戦者が立ち向かってきた。
7度目の防衛戦(1997年2月20日)、最強の相手と目されたサウスポーのジェリー・ペニャロサ(フィリピン)と中盤まで互角に戦いながら、終盤に追い込まれて判定負け。すると、視力低下を理由に、そのまま引退の道を選んだ。
『ボクシング・マガジン』誌では、有力な指導者に、海外のトップ選手の技術を分析してもらう連載企画があった。川島にも幾人ものボクサーを分析してもらった。記憶に残るのは、そのうちのひとりについて激しく反応したことだ。ギジェルモ・リゴンドー(キューバ)だった。2000年シドニー、2004年アテネと2大会連続のオリンピック・バンタム級金メダリストで、史上最強のアマチュアボクサーとも言われたサウスポーだ。
このカリビアンはアームブロックも上手だが、そもそも体に触らせない。上体の動きを絶やさず、すばやく、的確なステップに乗せ、完璧に身を守り、そして効果的な一打でポイントを積み上げた。川島の評価は絶賛に等しかった。数カ月後、川島ジムを訪れると壁の大型テレビにリゴンドーの戦う様子が映し出されている。その動きを頭に入れて、練習してほしいと願いをこめたのだという。
やはり、川島ボクシングの真髄は、しっかりと自分を守り抜くという前提に成り立っていると確信した。打たせなければ、決して負けることはない。うまく打撃の機会を見つければ、いつでもノックアウトのチャンスは見つかるのだ。
Art of self defenseーーボクシングの別名である。その真意を知り、プロボクシングという競技にさらに深く埋めこむこと。ふたつの大事な命をリングで失った、日本ボクシング界の悲しい夏だからこそ、川島郭志のボクシングとともに、学ばなければならないことがある。
Profile
かわしま・ひろし●1970年3月27日生まれ、徳島県海部郡海部町(現・海陽町)出身。父の方針で幼少期からボクシングを始める。海南高校時代、インターハイ・フライ級で優勝。逸材として相模原ヨネクラジムから1988年にプロ転向した(その後、系列ジムのヨネクラジムに移籍)。キャリア序盤の敗戦、負傷によるブランクを乗り越えて、1992年に日本スーパーフライ級タイトルを獲得。圧倒的な強さで3連続KO防衛後、満を持して世界に挑戦した。1994年、ホセ・ルイス・ブエノ(メキシコ)に判定勝ちし、WBC世界スーパーフライ級王者に。6度防衛後、タイトルを失ったのを機に引退した。現在は東京都大田区に川島ボクシングジムを開き、後進の指導にあたっている。身長165cm。左のボクサー型。24戦20勝(14KO)3敗1分。