【モンスターが競輪参戦】
ボディビルダーのような上半身に、丸太のような太もも、そして鋭い眼光に、丸刈りの頭。一見すると、まるで総合格闘家だ。その風貌から近寄りがたさを覚えるが、漂うオーラは穏やかで温かみさえ感じる。
それが人類最速スプリンター、マシュー・リチャードソンだ。自転車競技トラックの短距離選手で、2025年8月には200mタイムトライアルで前人未到の8秒台(8.857秒)をマーク。全世界に衝撃を与えたイギリス人選手だ。
そんなモンスターが、日本の競輪に参戦することになった。6月3日から約3カ月間、全国各地の競輪場で開催される「競輪ワールドシリーズ2026」に出場する。
そもそも外国のトップ選手を招へいするこの競輪の歴史は古く、1982年の「国際競輪」から始まっている。新型コロナウイルスの感染拡大で2019年を最後に一時中断していたが、7年の歳月を経て今年再開が決定。今回参戦する6選手のうちのひとりがリチャードソンだ。
「とても大胆な性格」
リチャードソンの言う「大胆」とはいったいどんな部分なのだろうか。その風貌と雰囲気のギャップにも驚かされるが、彼の生い立ちにもまた驚きに満ちた「大胆」な行動や決断があったようだ。
【大胆な競技転向】
幼少期から体操競技を始めていたリチャードソン。9歳の頃に父親の仕事の都合でイギリスからオーストラリアに移住するも、体操競技は続け、トレーニング漬けの毎日を送っていた。14歳の時にはオーストラリアの全国大会で年代別優勝を果たすなど、早くからその才能が開花。将来はオリンピック出場も夢ではなかったはずだが、そんな折、不運にもヒジのケガに見舞われてしまう。
大事を取ってここは休養かと思われたが、リチャードソンは大胆にも競技転向を決断する。
「1年間だけですが、体操と並行して自転車競技もやっていました。それまで11年間体操をやってきましたが、競技転向はそれほど難しい決断ではありませんでした。自分も若かったし、みんなも若い頃はあまり深く考えないですよね。自転車競技はまったく新しいものでしたし、面白そうだと思って転向しました」。
実にあっさりと転向してしまうところが、リチャードソンの思いきりのよさなのだろう。
ただ競技歴わずか1年の自転車で、体操のような輝かしい成績を残せるとは到底思えない。しかしリチャードソンは、なんとここから自転車でも急速に成長していく。
最初に入った「ミッドランド・サイクリングクラブ」から、将来有望な選手を発掘・育成する機関「ウェスタン・オーストラリアン・インスティテュート・オブ・スポーツ」に招待されると、将来性を見込まれて奨学金をもらうことになる。
「ウェスタン・オーストラリアン・インスティテュート・オブ・スポーツに入った途端に、さまざまな機会を与えてもらえました。試合にもたくさん出場することができましたし、トレーニングの内容もコーチ陣もより質の高いものになりました。ナショナルチームに行けば、また同じようによりよいコーチ陣、よりよい施設でトレーニングができました」
与えられたチャンスで期待以上の結果を出し続けてきたリチャードソンは、その実力を認められてナショナルチーム入りを果たすと、2020年、20歳の時に出場した世界選手権のチームスプリントで銅メダルを獲得。これは彼にとって主要国際大会で初のメダルだった。
リチャードソンもこのレースについて、「エースであるマシュー・グレーツァーがケガにより直前で欠場するなど、いろんな変化があるなかで新しいことを経験し、チームを作り上げていくことができてよかったし、楽しい時間でもあった」と語るなど、自身のキャリアのなかでも特に記憶に残るレースのひとつに挙げた。それ以降、彼はナショナルチームで確固たる地位を築くことになる。
東京五輪ではメダルこそ手にできなかったものの、3種目に出場し、チームスプリントで4位の成績を残す。2022年の世界選手権ではチームスプリントで金メダル、スプリントで銀メダルとその実力を世界に知らしめた。
そして満を持して臨んだパリ五輪では、スプリント銀メダル、ケイリン銀メダル、チームスプリント銅メダルと好成績を連発。押しも押されもせぬオーストラリアの絶対的エースとなった。
【大胆な国籍変更と記録への挑戦】
しかしオリンピックからわずか1週間後、驚きのニュースが飛び込んできた。それは国籍変更だ。
そして大胆とも言えるオリンピック直後のイギリスへの国籍変更に、世界中の自転車競技ファン・関係者は衝撃を受けた。賛否両論があるなかで、オーストラリア国内からは批判の声も上がり、リチャードソン自身も「一番厳しかった時期」と振り返っている。
「国籍変更で世間も注目しましたし、否定的な部分もありました。そんな世間に対して、自分が正しい選択をしたことを証明しなくてはならないので、プレッシャーはありましたし、それは自分自身の今後の結果にかかっていました。環境が変化するなかでそれをしなければいけないのは大変でした」
なんとしても目に見える結果を出したい――。そう考えたリチャードソンは大胆な目標を立てる。それが前人未到の200m8秒台という記録だ。
それまでの世界記録はパリ五輪時にハリー・ラブレイセン(オランダ)が出した9.088秒。この記録を打ち破るべく、「世界最速プロジェクト」が立ち上がった。
そして2025年8月、トルコで行なわれたイギリス自転車競技連盟による2日間の非公開イベントの初日で、8.941秒を記録して世界で初めて9秒の壁を突破。翌日にはさらに記録を伸ばし、8.857秒と自らの世界記録を更新した。
「そこに行くまでにものすごい努力をしていましたので、それが報われて正直ホッとしました。かなりプレッシャーを感じていましたので」
最大出力の出し方、空気抵抗を減らすための工夫など、最速走行の実現のために何カ月にもわたってトレーニングをした努力が世界最高記録として結実。「タイムを出すためだけの練習は初めてで、その過程のなかで選手として学んだことは大きかった」と、この記録達成はその後の競技人生にも大きな影響を与えることになった。
パリ五輪のスプリントとケイリンでは、ともに決勝でラブレイセンに敗れ銀メダルに終わっていたが、2026年2月に開催されたトラックヨーロッパ選手権では、同2種目でラブレイセンに競り勝ち、金メダルを獲得。オーストラリア代表時には達成できなかったラブレイセンを下しての金メダルで、国籍変更が成功だったことを結果としても証明してみせた。
【複数年計画の競輪参戦】
大胆で驚きに満ちた道のりを歩んできたリチャードソン。そんな彼は日本の競輪について「自転車競技を始めたばかりの15歳か16歳の時には知っていて、とても面白そうに見えた」と語り、「そこに参戦できる可能性があることにとてもワクワクしていた」と以前から競輪参戦を楽しみにしていた。
今回の参戦についてリチャードソンは抱負を語る。
「もちろんレースには勝ちたいです。(競輪ファンには)レースがうまいところを見せたいですし、日本の競輪のスタイルに合っているなと思ってもらいたいですね。そしていつも全力で取り組んでいるところも見てもらいたいです」
日本のファンにも認められたいという思いの裏には、複数年にわたって競輪界に貢献したいという意欲があるようだ。
「最初の年は、次の年に招待されるかどうかに関わってくるので、その面でもたくさん学んでいきたいと思っています」
日本の競輪用自転車は国際大会で使用する自転車とは違う。
「ロサンゼルス五輪では(スプリント、ケイリン、チームスプリントの)3つの金メダルを獲りたいと思っています。オーストラリアでオリンピックが開催される頃(2032年・ブリスベン)には自分のピークは過ぎてしまっていると思うので、ロスで目標を叶えたいですね」
そのためにも日本の競輪参戦は実力アップの絶好の機会と捉えている。
「日本の競輪への参戦はUCI(国際自転車競技連合主催)の国際大会で役立つと思うので、できるだけいろんなスキルを得て、多くのことを経験したいです」
リチャードソンの最初の出走予定は、6月26日から3日間、福岡県の小倉競輪場で開催されるレースとなる。
これまでも多くの人々に大胆な決断や行動で驚きを与えてきたリチャードソン。その結果たどり着いた世界最高のスピードは一見の価値がある。競輪ワールドシリーズでもそのダイナミックな走りをきっと披露してくれるはずだ。競輪ファンのみならず、多くのスポーツファンには、この貴重な機会を絶対に見逃してほしくない。
【Profile】
マシュー・リチャードソン
1999年4月17日生まれ。イギリスで生まれ9歳の時にオーストラリア・パースに移住。体操選手として注目されていたが、14歳で自転車競技に転向。すぐに頭角を表し、2020年の世界選手権でチームスプリント銅メダルを獲得。東京オリンピックでは3種目に出場し、2022年の世界選手権でスプリント銀メダル、チームスプリント金メダルを手にした。2024年にパリオリンピックでスプリント銀メダル、ケイリン銀メダル、チームスプリント銅メダルを獲得すると、その直後にイギリスに国籍を変更した。2025年8月には200mFTTで8.857秒の世界記録を樹立した。



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