中村順司インタビュー(前編)

 高校野球史に「KK」の名を刻んだ桑田真澄清原和博。ふたりがPL学園の門を叩いたのは1983年春のことだった。

1年夏から桑田はマウンドに立ち、清原は4番を任され、やがて甲子園を席巻していく。だが、当時の監督である中村順司氏は「ふたりを特別扱いしたことはなかった」と振り返る。そこには、才能を見極めながら将来を見据えて育てる指導、1年生を支えた上級生たちの存在、そして先輩の背中から後輩へと受け継がれていくPL独自の伝統があった。1年夏の全国制覇から、3年夏の日本一、さらに立浪和義ら次世代の春夏連覇へ──。最強時代のPL学園はいかにしてつくられたのか。中村氏に聞いた。

【高校野球】桑田真澄は2安打完封、清原和博は公式戦初本塁打 ...の画像はこちら >>

【仲田幸司から二塁打で4番確定】

── 1983年、PL学園には桑田真澄選手、清原和博選手をはじめ、中学時代から名を知られた将来性豊かな選手が数多く入部しました。

中村 私は、中学時代の実績はできるだけ考慮せずに部員を見るようにしていました。たしかに桑田や清原をはじめ、すでに実績のある選手が多く入ってきましたが、「常にフラットな状態で全部員を見る」というスタイルを崩すことはありませんでしたね。

── その夏の大阪大会では、1年生ながら桑田選手、清原選手、田口権一選手の3人がベンチ入りしました。当時のPLとしては珍しかったのではないでしょうか。

中村 前年の選抜は、エースの榎田健一郎を軸に優勝することができました。この学年には好投手が揃っていたので、下級生投手の出番はほとんどありませんでした。

1学年下にも藤本耕らいい投手がいましたが、故障や調子が上がらない選手もいた。それで夏は、桑田や田口といった1年生投手もベンチに入れて、総力戦でいこうと考えました。

── 清原選手も中学時代は投手だったそうですね。

中村 岸和田シニアではエースで4番として全国大会でも活躍していましたから、本人にも投手を続けたいという気持ちはあったと思います。ただ、桑田や田口といった好投手がいた。それ以上に、清原の長打力がずば抜けていました。ですから、早い段階で野手として試合に出ることになりました。

── 入学直後から4番だったわけではなかった?

中村 いきなりスタメンで使ったわけでも、すぐに4番に据えたわけでもないんです。それで入学してしばらく経った頃、興南(沖縄)との練習試合があったんです。その試合で、当時「屈指の左腕」と言われていた仲田幸司くんから、清原が左中間へ痛烈な二塁打を打った。あの一打で、「4番でいこう」と決めました。

── そしてPL史上初めて、1年夏から4番を打つことになります。

中村 とにかく飛距離が抜群でした。「あそこまで飛ばす選手は清原しかいない」と、みんなが認める存在でした。飛ばす力に関しては、やはり別格でした。

【公式戦初先発で2安打完封】

── 一方、桑田選手の公式戦初先発は大阪大会4回戦の吹田戦でした。

中村 大阪球場での試合でした。前日、桑田に「大阪球場で投げたことあるか?」と聞いたら、「はい、あります」と言うので、「そうか。じゃあ、明日先発でいくぞ」と言って送り出しました。

── その試合で、桑田選手は2安打完封。そして清原が公式戦初本塁打を放ちました。1983年7月26日は「KK伝説」の始まりとも言える試合です。

中村 あの時に印象に残っているのは、主将の朝山憲重を中心とした上級生の姿です。1年生が伸び伸びとプレーできるよう、非常に気を配っていました。先発する桑田にも余計なプレッシャーを与えないように、「試合が始まるまでは、あえて声をかけないようにしよう」という感じでしたね。

桑田や清原だけでなく、上級生がああいう空気をつくってくれたことが大きかったと思います。

── 吹田戦以降、投手陣の軸を桑田に移したのでしょうか。

中村 いや、まだ1年生ですから、無理をさせないことを第一に考えていました。将来のある高校生と向き合う以上、目先の勝利だけではいけない。バランスのいい体の使い方や、体の機能を考えながら指導することが大切だと思っていました。藤本をはじめ上級生にもいい投手がいましたから、桑田はリリーフに回しました。誰かひとりに負担をかけるのではなく、全員ができるだけいい状態で投げられるようにしたかったんです。

【3連覇を目指す池田に圧勝】

── 甲子園でも勝ち進み、準決勝では3季連続優勝を狙う池田(徳島)と対戦します。「やまびこ打線」を擁する池田が圧倒的有利と見られていました。

中村 私が考えたのは、「どうすれば選手たちを互角の気持ちでグラウンドに立たせられるか」ということでした。前日のミーティングで、選手たちにこう言いました。「実力的には6対4で向こうが上だ。

しかし、君たちが気持ちを高め、一致団結すれば五分五分になる。勝負はどちらに転ぶかわからない」と。それともうひとつ、全力で挑んで試合に負けたとしても、「池田は強かった」「水野くんの球はすごかった」とは絶対に言うなと伝えました。戦う前から相手を必要以上に大きく見てほしくなかったんです。

── 水野雄仁投手の攻略については、どんな指示を出したのでしょうか。

中村 春の選抜を見ていて感じたことがありました。水野くんのような球威のある速球を逆方向へ流し打ちしようとすると、バットのヘッドが下がってしまう。それなら「内角のボールを思い切って引っ張ろう」と伝えました。

── その狙いが的中し、桑田選手、住田弘行選手、小島一晃選手の下位打線3人から本塁打が飛び出しました。

中村 普段から、私が感じたことをできるだけわかりやすく、簡潔に伝えることを大切にしていました。それと、試合後のことですが、池田の蔦文也監督から「PLには優勝してほしい」と言っていただいたんです。3連覇を逃した直後ですよ。

それでも相手を称える。あの姿勢には本当に感銘を受けました。

── その池田戦では、清原選手は無安打でした。

中村 清原は甲子園に入ってから神経性の下痢もあって、本来の力を出せていませんでした。ただ、ライト前に落ちるポテンヒットをきっかけに少しずつ調子を取り戻し、池田戦を迎えていました。池田も「4番の1年生を徹底的にマークしよう」と考えていたようです。あの試合では結果が出ませんでしたが、清原は引きずらなかった。翌日の横浜商との決勝では、好投手の三浦将明くんから逆方向へ甲子園初本塁打を放ちました。そういう切り替えのできるところも、清原の強さだったと思います。

つづく>>


中村順司(なかむら・じゅんじ)/1946年、福岡県生まれ。PL学園高(大阪)で2年の時に春の選抜甲子園に控え野手として出場。卒業後、名古屋商科大、社会人・キャタピラー三菱でプレー。

76年にPL学園のコーチとなり、80年秋に監督就任。81年春の選抜で優勝を飾ると、82年春優勝、83年夏優勝。84年春の決勝で敗れるまで甲子園20連勝を記録。98年の選抜を最後に勇退。18年間で春夏16回の甲子園出場を果たし、優勝は春夏各3回、準優勝は春夏各1回。99年から母校の名古屋商科大の監督、2015~2018年には同大の総監督を務めた

新田光●文 text by Hikaru Nitta

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