セザール・サンパイオ ロングインタビュー/第1回(全4回)

 1995年に横浜フリューゲルスに加入し、黎明期のJリーグで4シーズンにわたってワールドクラスのパフォーマンスを披露したセザール・サンパイオ。同クラブ在籍中の1998年に開催されたフランス・ワールドカップではブラジル代表の主軸を担い、準優勝に貢献した。

 2002年から再び日本に活躍の場を移し、柏レイソルサンフレッチェ広島でプレー。2004年にサンパウロで現役を退いたあと、解説者やクラブ経営者、ブラジル代表のアシスタントコーチなどを歴任し、常に最前線でサッカーに貢献してきた。そんなレジェンドとのインタビュー第1回では、横浜フリューゲルスでの記憶を語ってもらった。

横浜フリューゲルスでの日々を振り返るセザール・サンパイオ「僕...の画像はこちら >>

【プロ化の初期段階に手を貸す仕事に興味を持った】

──あなたが横浜フリューゲルスに加入した時、ジーニョ、エバイールとともに、パルメイラスの3大スターが移籍してくるということで、大きなニュースになりました。当時、なぜ日本でプレーしようとしたのですか?

「正直に言うと、僕はあまり日本のことを知らなかった。ただ、フリューゲルスの強化部長の言葉が心に響いたんだ。競技の面だけでなく、プロ意識というものを、チームメイトとして日本人に伝えてくれる選手を必要としているんだと、彼は言った。サッカーのプロ化の初期段階に手を貸すという、想像もしなかった仕事に興味を持ったわけだね。しかも、いい条件を提示してもらった。そうしたフリューゲルスの姿勢にすごく好感を持ったんだ」

──実際に行ってみて、チームや日本サッカーの印象はどうでしたか?

「ジーコがテレビで、フリューゲルスは1995年のJリーグの優勝候補のひとつだと言っていた。チームには山口(素弘)、森(敦彦)、三浦(淳宏)、前田(治)といった日本代表選手たちがいて、そこに僕とジーニョ、エバイールというブラジル代表選手が加わったわけだから。

 ところが、1年目は14チーム中13位だった。当時は監督が日本人の木村(文治)さんで、アシスタントコーチがドイツ人のゲルト(・エンゲルス)、そして外国籍選手は僕らブラジル人。

それぞれは優秀でも、噛み合うのが難しかったと感じたよ。僕自身もスピーディな日本サッカーに適応する期間が必要だった」

【忘れられない天皇杯決勝】

──日本の生活はどうでしたか?

「最初は僕らブラジル人選手が3人いて、家族ぐるみで一緒に助け合えたのがよかったね。大家族のような雰囲気で過ごしたのは、人生のなかでもひと味違う、楽しい経験だったよ。その後、エバイールとジーニョは帰国したんだけど、それはそれで悪くなかった。僕もひとりになったことで、もっと日本の習慣を身につけよう、コミュニケーションを取ろうと頑張れた。

 日本人は引っ込み思案な人が多いよね。最初は誰も、僕に話しかけてこなかった。僕も日本人がみんな同じ顔に見えて、名前と顔が一致するまでに半年もかかってしまったけど(笑)。ただ、日本の人たちはいったん信頼したら、その信頼は揺るぎないものになる。そうやって、僕らはお互いに心を開いていったんだ」

──フリューゲルスで特に記憶に残っている試合はありますか?

「僕の人生のなかでも忘れられない試合がある。1999年1月1日の天皇杯決勝だ。元日にファイナルで勝って優勝したのに、その翌日にクラブの全員が職を失ったんだ。クラブが消滅してしまったからね......」

──その決勝にいたるまでの、フリューゲルスでの最後の2カ月を振り返ってもらえますか?

「ある日(1998年10月29日)、普段どおりに練習に行ったら、クラブに大勢の報道陣がいて、初めて知らされたんだ。

チームの消滅が決まったことを。

 もうパニックだよ。それからは、ただ抗議のために日々を過ごした。抗議の意志を表すために、スポンサーである航空会社の利用を拒否してライバル会社の飛行機で遠征したり、選手は全員、黒いスーツとネクタイを身につけたり、試合前の集合写真で腕組みをして胸にあるスポンサーの名前を隠したり。親会社の経営の問題だから、そんなことをしても意味がないとわかっていた。でも、僕らはチームを終わらせたくない一心で、思いつくかぎりのことをしたんだ。

 同時に、移籍先の決まらない選手も多かったから、苛立ちから選手同士の言い合いが始まったり、練習中に投げやりなプレーをしたり、日々の練習も難しくなっていた。それで、選手みんなで話し合ったんだ。『ここでケガでもしたら、次のクラブを見つけることさえ難しくなってしまうから、落ち着こう』と」

【4年間、とても幸せな日々を過ごした】

──そうやって臨んだのが天皇杯だったんですね。

「経営側はJリーグ最終節でクラブの活動を終える意向だったけど、僕ら選手が戦うべきだと決めたんだ。ただ、天皇杯は試合に負けたら、そこで終わり。だから、試合のたびに『もしこの試合に負けたら、フリューゲルスは消滅だ。

だけど、みんなでここまで一緒にプレーできてよかった』と話した。感情が高ぶったよ。波戸(康広)や瀬戸(春樹)、楢﨑(正剛)のような若手は泣いていたよ。

 同時に、だからこそみんなで勝つことだけを考えて全力を注ごう、と。そうやって僕らはさらに闘争心を高め、チームに献身した。サポーターは僕らと一体となり、エネルギーを送ってくれた。そして、準々決勝で鹿島アントラーズを破り、準決勝でジュビロ磐田に勝った。

 清水エスパルスとの決勝は、チーム全員の人生を賭けた試合だった。その先もプロ選手として生きていけるかがかかっていたんだ。その試合に2ー1で勝利。優勝の瞬間、みんなで泣いた。タイトル獲得の歓喜と、最後の試合が終わったことへの悲しみ。

忘れることのない記憶だ。僕らはひとつの目的のために結束した。フリューゲルスのために戦った多くの人たちのために、大事なものを残すんだと誓い合って。僕自身、あんなに強く結束されたチームでプレーしたことはほかにない」

──こうして思い出すだけで、さまざまな感情が蘇りますね。

「みんなで署名活動をするために、新横浜の駅に行ったんだ。電車から降りてきた人たちに『フリューゲルスを終わらせないために署名をお願いします』と呼びかけて。それをサポーターも一緒にやってくれてね。僕らとサポーターは多くの瞬間をともに過ごし、あの衝撃的な時に、クラブがいかに愛されているのかをあらためて感じさせてくれた。

 たった1日で2000人の署名が集まったんだよ。全国では62万人も。僕らはそれをまとめて、会長に渡したんだ。会長にはどうすることもできなかったけどね。

でも、僕らが築いた友情は、永遠のものとなった」

──横浜フリューゲルスでの経験は、その後の人生にどんな影響がありましたか?

「フリューゲルスでの経験により、『困難とは自分が作ってしまうものだ』ということを知った。山が高すぎて越えられないと思えば、ずっとそこにいるだけのこと。だけど、自分に強い意志があれば、困難は挑戦に変わる。あの天皇杯優勝を経験し、そう思えるようになったんだ。

 だから、こう断言できる。僕の経歴のすべてを通しても、フリューゲルスでプレーしたことは、最も大事な記憶のひとつだと。4年間、とても幸せな日々を過ごしたからね」

(つづく)

第2回を読む >>> 「仲間が問題を抱えていれば、一緒に解決しようとした」 柏と広島でも困難を乗り越えたセザール・サンパイオ

セザール・サンパイオ Carlos César Sampaio Campos
1968年3月31日生まれ、ブラジル・サンパウロ出身。現役時代は万能型のボランチとして活躍し、サントス、パルメイラスというブラジルの名門を経て、1995年に横浜フリューゲルスに加入した。同クラブ在籍中、1998年ワールドカップにブラジル代表のレギュラーとして出場し、準優勝に貢献。2002年に柏レイソルに入団、翌2003年からはサンフレッチェ広島でもプレーした。引退後はクラブ経営や指導者の職務を歴任し、大学で経営学なども学んでいる。

藤原清美●取材・文 text by Kiyomi Fujiwara

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