現場から盗まれたのは玄米4俵のみ。金目のものには一切手が付けられていなかった。乏しい物証、大雨で流された痕跡、そして極度の食糧難が捜査を阻む。やがて村民たちは疑心暗鬼に陥り、互いを犯人だと罵り合うように……。
犯人はなぜ、母子ら7人の命を奪ったのか。そして、その正体は誰だったのか。15年の時を経て公訴時効が成立し、永遠の謎となった戦後最大のミステリーの一つ、「市田(いちだ)村一家7人殺害事件」の真相に迫る。
※ この記事は、『戦後まもない日本で起きた30の怖い事件』(鉄人社、2024年)より一部抜粋・構成しています。
血の海と化した一軒家
1946年5月10日18時ごろ、長野県下伊那郡市田村大島山(現・同郡高森町大島山)在住の主婦が、前年に夫を亡くした後沢貞(うしろざわ・さだ/当時38歳)の家を訪ねた。この日、隣組でお産があり、その誕生祝を届けるためだった。が、夕食時にもかかわらず、何度名前を呼んでも返事がない。
主婦は貞や子供たちが前日、山菜採りに行ったことを知っていたため、毒草にでも当たって寝込んでいるのかと思い、障子の割れ目から中を覗き込んでみた。
すると、やはり貞らしき女性や子供たちが座敷に敷かれた布団の上に横たわっている。
果たして、屋内は血の海で、貞と長男(同12歳)、次男(同9歳)、長女(同6歳)、三男(同3歳)の母子5人、さらに貞の妹でこの家に同居していた小室一江(こむろかずえ・同25歳)と彼女の娘(同3歳)の計7人の変わり果てた姿が見つかった。
残された物証と消えた犯人
通報を受けた長野県警飯田署の捜査員が駆けつけ、現場検証を行った結果、被害者7人はいずれも、就寝中に薪割り用の斧(現場に残されていた)で頭部もしくは額を1、2回殴られて殺害されたものと推定された。また、司法解剖で胃腸内の食物の消化状態が確認され、死亡推定時刻は9日21時ごろから10日午前1時ごろと判明。さらに現場から玄米4俵が盗まれていること、犯人が外から室内の様子を窺うために唾液で開けたとみられる障子の穴が見つかった。
警察は、凶器である薪割り用の「ヨキ」と呼ばれる斧の線から本格的な捜査を開始する。斧には「市」の刻印があり、1930年(昭和5年)に下伊那郡山吹村(現・高森町大字山吹)で10丁制作されたもののうち、市田村下市田の住民が購入して地元の製糸組合に納入、釜焚きの薪割りに用いられていた7丁のうちの1丁だったことが判明。
警察は斧の納入を受けていた製糸組合の従業員・出入り業者など293人を徹底的に調べた。
しかし、事件当時は終戦直後の混乱期で、かつそれから15、16年前に遡っての捜査であることに加え、斧の保管責任者が1943年に満州に行ったまま消息不明になっていたことなどから調査は困難を極め、最終的に7丁の斧のうち3丁は雑役夫や火夫の助手たちに盗まれていたことがわかったものの、残り4丁の所持者や行方は最後まで明らかにならなかった。
一方、盗まれた玄米4俵は、現場から約300メートル離れたサツマイモ貯蔵用の洞穴(ほらあな)の中に隠してあるのが見つかった。米俵にはわずかながら血痕が付着していたことなどから、警察はこれらを被害品と断定。
犯人が必ず米を取りに戻ってくるものとみて、洞穴の所有者に口止めしたうえで極秘に捜査員を張り込ませたが、犯人が姿を見せることはなかった。
また、この洞穴がこれまで何度もサツマイモ盗難の被害に遭っていたことから、警察は盗難の現行犯で逮捕された者を中心に身辺調査を実施したが、いずれも本事件とは無関係と判明している。
捜査を阻んだ終戦直後の“壁”
長野県警刑事課と所轄の飯田署は現場近くの瑠璃寺(るりじ)に捜査本部を設置、延べ8000人に及ぶ捜査員を導入し犯人を追った。が、極度の食糧難から十分な捜査活動は実現せず、事件発生からわずか3か月で捜査体制の縮小を余儀なくされる。事件を振り返った1961年発行の『信濃毎日新聞』によれば、当時の捜査員たちは草も食べていたような状態であり、その大半が体重を5~10キロ減らしていたという。
こうした捜査員の事情に加え、物証が凶器の斧と被害品の米俵のみだったこと、被害者宅が人里離れた山腹に建つ一軒家だったため事件発生から発覚まで1日を要したこと、事件当夜が大雨で足跡などが洗い流されていたこと、事件発生時に村民が鐘を打って事件を全村に知らせ警察官より先に現場に駆けつけた住民が、凶器に手を付けたり死体を動かしたりしていたことなどが、現場鑑識による犯人特定をより困難にした。
疑心暗鬼が生んだ村の悲劇
それでも、警察は凶器や犯人のものと思われる足跡がそれぞれ1つずつしかなかったことや、犯人が犯行後に現場から約300メートル離れた洞窟まで玄米を運び出すために数回往復していることから、単独犯であると推定。また犯人のものと思われる足跡が大きかったことや、被害者7人を1、2回の殴打でそれぞれ即死させたこと、1人で玄米を運び出せたこと、現場から米を盗んだ一方で金目のものには手を付けていないこと、無抵抗な被害者たちを次々と惨殺している点から、現場に土地勘のある地元住民であると犯人像を絞り込んだ。
そのうえで、隣接する町村や飯田市内全域で、盗癖者、素行不良者(前科者など)、身分不相応の金銭消費者、食糧品ブローカー、復員軍人・朝鮮人・疎開転入者など約400人を調べた結果、被害者一家と同じ集落に住んでおり、かつ子供が多く生活苦に悩んでいた1人の男性が浮上する。が、犯行を裏づける証拠は得られない。
集落の住民たちは疑心暗鬼に陥り、特定の人物を名指しで犯人呼ばわりする者が現れたところ、名指しされた側が逆に自分を犯人呼ばわりした住民を犯人呼ばわりする事態が勃発、最終的には最初に「あいつが犯人だ」と言いふらした住民は後に自殺したという。
迷宮入りへのカウントダウン
事件から3年後の1949年4月1日、富山県警から長野県警へ、富山県で窃盗事件を起こして現行犯逮捕された男が本事件の犯人であると自供したという連絡が入った。これを受けた長野県警の捜査員は男を取り調べたものの、死刑に相当する殺人事件を窃盗犯が積極的に自供したことはいかにも不自然で、供述内容も事実と矛盾していた。結局、この「自供」は長野県出身の男が富山県の刑務所ではなく、郷里である長野の刑務所に入るために行った狂言であることが判明した。
その後も捜査は継続され、公訴時効成立3か月前の1961年1月31日から2月1日には、県警本部の幹部らが事件の総合的な再検討を行った。
事件当時より進歩した科学捜査の技術によって物証を再検討することで犯人への手がかりが浮上することに期待をかけた最後の捜査だったが、結果は米俵に付着していた血痕が人間の血液と断定できただけで、それが被害者のものか否かまで判別することはできなかった。
事件は解決の糸口さえ掴めぬまま1961年5月10日に公訴時効成立。真相は永遠に闇に葬られた。

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