「この二ヶ月、寝食を共にして、ようやく息子になった気がした」学ぶべき、別れ、死への準備・知識について(デス・リテラシー)
「この二ヶ月、寝食を共にして、ようやく息子になった気がした」学ぶべき、別れ、死への準備・知識について(デス・リテラシー)

母が死ぬなんて、どこか現実味がなかった。元気で、いつも通りに暮らしていた人が、残り10日で一気に逝く──。

在宅での看取りを通して体感したのは、「人は急に死ぬ」というあまりに当たり前で、しかし実感のなかった事実だった。家族の戸惑いと、支える人々とのつながり、そのすべてを振り返る。

『この家で死にたいと母は言った』より一部を抜粋、編集してお届けする。

今回、体感としてわかった。人は急に死ぬ

訪問看護師の小森さんが「この日々もいつか康彦さんの本になるんですかねえ」と言ったら、久子は笑ってこう答えたそう。「どうせそうやろ」

なんでもお見通し。どうせそうやろの本が、没後二年半経ってできあがった。

母が死ぬなんて思いも寄らなかった。バカみたいなつぶやきだが、私が生まれて六十数年ずっと当たり前にいる存在で、いつも元気。記した通り生き生きしていた人物で、死の予測など立てられなかった。余命宣告を受けたとて現実味はなかった。

しかし今回、体感としてわかった。

人は急に死ぬ。久子は残りほんの10日間で一気に果てた。医師の予測通りだった。

「3年です」「夏を越えられるかどうか」

専門家ってすごい。ひいちゃんのラスト3年のQOLグラフを描けば、高値安定型、緩ーい下降線で、それがほんの数日間で急落。死のぎりぎりで突如「現実」が襲ってきて、大いにあたふたする自分がいた。

死亡確認後、24時間ほどはあまり記憶にない。張りつめていた気が緩んだときであったし、加えて寝不足、けっこうな疲労が積もってもいた。つまりは老老介護だったわけで。

葬儀は家で行った。兄は町の葬儀場を提案したが、この家で死にたかった人を送るのもこの家しかないと、みんなでもうひとがんばりすることに決めた。

座敷と居間の間のふすまを取り除くとかなりの広さ。
古屋敷はそういう造りだ。仏壇脇に簡易の祭壇を据えた。言いつけ通り質素に。

麻実と子どもたちが下座となる応接間の壁一面に写真を百葉ほど貼り付けた。すべて久子が写っているもので、少女時代、新婚時代、夫と、子どもと、PTAや町内会の集い、旅先、友人(ママ友)と、最近の入院姿まで。ひいちゃんの人生が一望できる。

写真だけでなく《ひいちゃんの愛用品》の展示も脇に。帽子、櫛、めがね、マグカップ、太田胃散に正露丸にマダムジュジュ……それらは今もそのままにしてある。

本来はマーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』もあるべきだが、これは棺のなかに納められ、久子と共に去っていった。

「お母さん」「おばあちゃん」の役割で過ごせる最期

母亡きあとの旧家に住む者はいなくなった。ごくたまに帰郷すると、しーんという音がする。屋敷はまだ葬儀のときの形そのままで、漂うのは線香の残り香。

あるじを失った家は共に瞬時に呼吸を止め、荒み始める。

おおこれぞ日本全国で起こっている空き家問題そのもの。問題というだけあって解決がむずかしい。

支援・介助・介護はそれ以上の「問題」であるだろう。私の場合もそうだが、身構え、覚悟をしていても、いざとなったらうろたえる。

お世話になった白木さん(福祉用具専門相談員)がこんなことを言っていた。

「実際に使える制度をみなさんあまり知らないんです。介護や看護の力が必要な本人やご家族が、それを知らないばかりに自分たちだけでがんばっているということが多い」

わかる! 今回私はまさにそれに直面した。提供する側は助ける準備ができているのに、受ける側がなかなかヘルプを言って来ない。

言い方がわからない。複雑な制度を知ろうとする力、意欲が必要とされる。個人差も大きい。家庭環境差、地域差も。

赤ん坊誕生時のシンプルな準備、世話に比べ、こちらのほうは被介護者の数だけのケア、技術、体力、知識を要する。予算も。正解が見えない。別れの日までの所要時間も。すなわち「デス・リテラシー」の問題。

母の場合は希望通りの在宅死となった。しかしそれはごく私的な一ケースに過ぎず、「はじめに」でも書いたように《流れで、たまたま、そんなふうになった、に過ぎない》。

私の最も苦しかったのはたった10日間だったが、それが数週間、数ヶ月、いや数年間にも及ぶ……といった方もおられるわけで、その道程、未来は誰にも見えない。

訪問看護師の小森さんには本当に助けられた。本書制作に当たって、彼女と母の写った写真を探したのだが、一葉もなかった。なぜなら私の不在のときにフォローで来てくれていた人で、あるいは私といるときはたいがい撮影どころではなかったからだ。

本稿に目を通した彼女からの最新メールのなかにこんな言葉があり、心に残った。

私は在宅看取り至上主義者ではないので、在宅で逝けた方がとても幸せで、病院で逝かれる方が不幸とも思いません。

どちらであってもご本人の希望が尊重されるべきですし、その方の「今」だけでなく「背景」にもよりそって過ごせる時間、存在が大切なんだろうな……と思っていますが、これもわかりません。

でも「患者さん」の役割よりは、「お母さん」「おばあちゃん」の役割で過ごせる最期のほうが幸せやろな~って思います。

振り返れば、母がボケなかったのは幸運だったし、小森さんのような看護師の存在も特例であろうし、その彼女が強く推してくれたヴォーリズ記念病院緩和ケア科への転院も理想的な移行だったと思うが、まあすべて結果論である。幸運なつながり。

良き死は、逝く者からの最後の贈り物となる

本書で私が書いたのは、こういった人と人とのつながり、家族や親戚、友人たちを巻き込んだ連綿と続く良き関係性を巡るコミュニケーションの物語だったのかもしれない。

ヴォーリズではそれを「命のバトン」という言葉で表す。本稿を確認していただいた奥野医師が、わざわざ当時のカルテを開き、「康彦さんのこんな言葉をメモしていますよ」と教えてくれた。

《この二ヶ月、ずっと寝食を共にして、ようやく息子になった気がした》
《今は自分の娘、息子に『面倒を見てな』と言える気がする》
あ、これがバトンか!

家族の発言までカルテに記録していた緩和ケアの医師に感心しつつ、ああ自分はあのとき心からそうつぶやいたなと振り返る。

今もその感慨というか感興、感触はある。一連の介護体験がなければ人生におけるこういった気づきを見逃していたに違いない。妻や子どもたちもそれに触れることができて幸運だった。

久子は自身の母を巡って、ノートにこう書いた。

《夕暮れは、亡母の恋しい時間です。いくつになっても恋しい人です》

母の死から二年経った現在、その感じがよくわかる。ひいちゃん、恋しいもんな。次々やってくる春には梅の古木にピンクの花が咲く。これが咲くと母をより強く思い出す。雪のなかに頼りなげに、でも凜と咲いている(カバー裏の写真がそれです)。

《良き死は、逝く者からの最後の贈り物となる》という警句も学んだ。
確かにひいちゃんは、私たちに素敵な贈り物=命のバトンを手渡してくれたのだった。親の死なんて誰もが経験する当たり前、平凡なことだが、自分の親が死ぬというのは自分だけの特別なことであった。

文/澤田康彦 
 

この家で死にたいと母は言った 親を自宅で看取るということ

澤田 康彦
「この二ヶ月、寝食を共にして、ようやく息子になった気がした」学ぶべき、別れ、死への準備・知識について(デス・リテラシー)
この家で死にたいと母は言った 親を自宅で看取るということ
2026/4/241,980円(税込)272ページISBN: 978-4797674804

「大切な人をどう送るか」「しあわせな最期とは?」を問いかける感動作!!
『暮しの手帖』元編集長・澤田康彦による「在宅死」を選んだ母と息子の、やさしくてあたたかい別れの記録

【特別寄稿】「本当によかったね。」本上まなみさん(著者の妻・俳優)収録

ある日、実家(滋賀県東近江市)でひとり暮らす九一歳の母(愛称ひいちゃん)がステージ4のがんと宣告された。「まあまあ元気」と思っていた母の命のカウントダウンが突然始まった。
「自分の家がいいんよ、どこにも行きたくない……」。住み慣れた家に最期までいたいと遠慮がちにつぶやくひいちゃん。在宅医療? 緩和ケア? 介護保険制度? 知識のなかった息子は「いっぱいいっぱい」になりつつも訪問看護師、ホスピス医、ヘルパーの力を借り、家族や友人を巻き込んで母に寄り添い続ける――。
母との二人きりの時間、残されたノートやアルバムを通して、昭和・平成を生きた人の人生が浮かび上がる。

【本文より・1】
彼女のラストの三年間は、死に向かう絶望、悲嘆にくれる三年ではなく、生そのものの年月だった。
母と私たちはよくしゃべり、よく食べ、飲み、笑って、泣いて、口げんかもし、たくさんの人を家に迎えた。
がんの宣告がなければ、母と息子がここまで深く交わることはなかっただろう。
母と私たちに与えられたのは、三年間の、文字通りの「長いお別れ」の時間だった。
【本文より・2】
「使える制度をみなさんあまり知らないんです。介護や看護の力が必要な本人やご家族が、それを知らないばかりに自分たちだけでがんばっているということが多い」(福祉用具専門相談員)
わかる! 今回私はまさにそれに直面した。
複雑な制度を知ろうとする力、意欲が必要とされる。個人差も大きい。家庭環境差、地域差も。技術、体力、知識を要する。予算も。正解が見えない。別れの日までの所要時間も。

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