明日10月23日、プロ野球の一大イベント「ドラフト会議」が行われる。指名された選手の数だけドラマが生まれる、なんてことが言われるドラフト会議だが、それはただドラフトを「イベント」として享受する側の意見だ。
実際に指名される立場の人はどんな心境で、指名後にはどんな生活の変化が生まれるのか? そこで、明日のTBS「プロ野球ドラフト会議2014」生中継で解説を務め、自身も33年前に「ドラフト1位」として指名された元巨人のエース・槙原寛己に、ドラフト会議を待つ立場の心境や裏側、大成する選手としない選手の境はどこにあるかを聞いた。


《ヤクルト、大洋(現・横浜DeNA)、巨人を希望していました》

─── 槙原さんといえば、愛知県立大府高時代に甲子園で活躍し、1981年ドラフトで巨人から1位指名をされました。全国の野球少年が憧れる瞬間、「ドラフトでコールされる」というのは、当事者としてはどんな心境なんでしょうか?

槙原 人によっても違うんでしょうが、僕の場合はドラフト前に12球団全てが来ていましたから。順位はともかく、どこからか指名される、というのはわかっていました。だから、「指名されるかどうか」っていう緊張感とは無縁なんですよ。できれば上位がいいなぁ、というのはありましたけど。


─── では、1位指名される、という手応えもあった、ということでしょうか?

槙原 そうですね。巨人以外の球団からも電話がかかってきたりはしていたので、もしかしたら、という気はありましたね。

─── ドラフト当日、指名される瞬間っていうのは、

槙原 今は夕方にやりますけど、僕のときのドラフト会議は午前にやっていたので授業中だったんです。だから、その瞬間、っていうのはいつなのかがわからなかった。まあ授業受けながら、「どこになったのかなぁ」とか「そろそろかなぁ」とかで頭の中はいっぱいで、全然授業に集中できてなかったですけどね(笑)。

─── ドラフト当日(1981年11月25日)のコメントでは、「びっくりしたが、巨人も希望球団の一つ」とコメントを残しています。
実際に行きたかった球団というのは?

槙原 僕は、在京のセ・リーグ球団に行きたかったんですよ。つまり、ヤクルト、横浜、巨人を希望していました。だからもう、巨人は万々歳なわけです。

─── ちなみに、在京、というのは何か理由があったんでしょうか?

槙原 親元離れてやってみたい、という短絡的な考えです(笑)。


《ドラフト同期は「負けたくない」と「安心感」》

─── ドラフト同期入団っていうのはやっぱり、他球団も含めてライバル視するものですか?

槙原 うん。そうですね。
やっぱり、気にはなりますよね。僕の世代だと、同じ愛知(名古屋電気高)の工藤公康(西武6位)とか、全国制覇をした報徳学園高の金村義明(近鉄1位)とか。うちにも吉村禎章(PL学園高/巨人3位)や村田真一(滝川高/巨人5位)もいましたし。同世代の人間がプロで活躍すると、羨ましいな、負けられないなって気持ちはいつもありました。

─── この年の巨人の指名選手は、槙原さんと、今名前の出た吉村さん、村田さんと、高卒選手がいずれも巨人でレギュラーになるという、当たり年でした。他にも2位指名で捕手の山本幸二さん(名古屋電気高)を指名していますし、これだけ高卒選手をとる年も珍しいですよね。


槙原 そうですね。山本、村田は今も巨人の中でコーチや裏からとして活躍していますし。

─── 同じ高卒選手がチーム内にいるっていうのは心強いものですか?

槙原 それもありますし、逆に励みにもなりますよね。同世代に負けたくはないですから。それと、プロ入り後よりも、一軍に上がったときに同期がいると安心感がありました。だから、「負けたくない」っていうのと「安心感」、その両方がありました。


─── 今だと、高校のライバル校同士でも、メールやSNSでの交流があるといいます。でも、槙原さんの時代だと同世代のライバルたちと交流などはあったんでしょうか? あいつはどこそこの球団から指名されそうだ、といったやり取りとか。

槙原 それはもう、新聞や雑誌で見るだけです。あとは正直、他の人を気にするほど余裕はないですよ。高校生ですから、自分のことで手一杯です。


《指名されてからしたのはカッコ良く書けるサインの練習》

─── 巨人に1位指名される、というプレッシャーは?

槙原 やんなきゃいけないな!とは思いましたけど、自分は4年間大学に行ったつもりでいたので、それほど焦りはなかったですね。
だからもし、3年目4年目まで頭角を見せることができなかったとしたら、相当焦ったでしょうね。

─── 以前、元巨人で、同じく1位指名された木田優夫さんにインタビューした際、ドラフト指名後、すぐにスポーツメーカーが、「ジャイアンツ木田」と刺繍されたグラブを持ってきてビックリした、と言っていました。槙原さんも同様な経験をされましたか?

槙原 ありましたねー。僕もドラフト後、すぐに頂きましたね。高校時代って名前をつけちゃいけないし、そもそもグラブなんて高価なもの。それを向こうから「使ってください」と持ってきてくれるわけです。あぁ、これからこういう世界が待ってるんだ、という驚きと嬉しさがありましたね。

─── 周りの反応で何か変化はありましたか?

槙原 やっぱり、「サインをしてくれ」っていうのが多くなりました。だけどまだ高校生だから、カッコよくサインを書くことにどうしても抵抗がありました。だから、結構家で練習しましたよ(笑)。


《プロ1年目は足腰を鍛えることが最優先》

─── 指名されてから入団に至るまではどんな心境でしたか?

槙原 もうとにかく、今以上に情報がないから、プロがどんな世界かがまったく分からなかった。なので僕の場合は、指名されてすぐ担当スカウトに、キャンプまでにどういうトレーニングをすればいいのかをピッチングコーチかトレーニングコーチに文面でいただけないか、とお願いしました。その指示を元にトレーニングを続けたので、準備だけはしっかりできたと思います。だから、キャンプは特に心配なかったですね。

─── 普通は、キャンプでプロの洗礼を浴びるわけですよね?

槙原 もちろん、きついなとは思いました。ピッチング練習はさせてくれないし。もう遠投か走ってばっかり。あと体操くらいか。ただやっぱり、飛ばしすぎちゃいけないですからね。そういう意味では、初めてのキャンプの指導法としてはよかったのかなーと今は思いますね。

─── 槙原さんは2年目に初先発初完封をあげるなど12勝1セーブ(9敗)して新人王を獲得しました。でも1年目は逆に一軍での出場はありませんでした。プロ入り当初からそういうプランだったんでしょうか?

槙原 そうです。だから最初のキャンプではまったくブルペンで投げさせてくれませんでしたし。球団としては「3年ぐらいで」ということだったみたいです。運良く2年目に一軍で投げられましたけど、1年目はもうただひたすら走って、たまにブルペンで投げて、ファームの試合投げさせてもらって、の繰り返し。とにかく、足腰を鍛えることが最優先でしたね。
(オグマナオト)

後編に続く

「プロ野球ドラフト会議2014」
10月23日(木)16:53~17:50、TBS系列で全国生中継。また、TBS系では同日19時から「ドラフト緊急生特番! お母さんありがとう 夢を追う親子の壮絶人生ドキュメント 運命の瞬間生中継」も放送される。

<槙原寛己プロフィール>
愛知県出身。愛知県立大府高では1981年のセンバツ大会に出場。同年、巨人からドラフト1位指名される。斎藤雅樹、桑田真澄とともに1990年代の読売ジャイアンツを支えた先発3本柱の一人。1994年5月18日に完全試合を達成した「ミスター・パーフェクト」。現在はTBS野球解説者。