【箱根駅伝 名ランナー列伝】山下拓郎(亜細亜大)「雑草軍団」...の画像はこちら >>

箱根路を沸かせた韋駄天たちの足跡
連載21:山下拓郎(亜細亜大/2004~2007年)

いまや正月の風物詩とも言える国民的行事となった東京箱根間往復大学駅伝競走(通称・箱根駅伝)。往路107.5km、復路109.6kmの総距離217.1kmを各校10人のランナーがつなぐタスキリレーは、走者の数だけさまざまなドラマを生み出す。

すでに100回を超える歴史のなか、時代を超えて生き続けるランナーたちに焦点を当てる本連載。第21回は、2006年の亜細亜大初優勝の立役者となった山下拓郎を紹介する。

連載・箱根駅伝名ランナー列伝リスト

【「陸上をやめたい」と寮を飛び出し】

「雑草軍団」と呼ばれたチームが箱根駅伝で"奇跡"を起こした。それが2006年(第82回)大会の亜細亜大だ。波乱のレースで9区の山下拓郎が快走。チームに史上初の総合優勝をもたらした。

 山下は常葉学園菊川高(現・常葉大学附属菊川高)時代の5000mベストが14分44秒。全国大会での活躍はなかったが、亜大の岡田正裕監督の指導で急成長した。身長160㎝の小柄なランナーが箱根路で大きく見えた。

 1年時(2004年)は10区に起用されると、区間7位と好走。過去最高順位となる総合3位のゴールに飛び込んでいる。2年時も箱根駅伝は10区を担当。前年の個人タイムを1分以上も短縮する区間6位で走り、総合7位に貢献した。

 3年時は山下にとって"地獄"が待っていた。座骨神経痛に苦しみ、走れない日々が続いたのだ。6月には「陸上をやめたい」と寮を飛び出した。

「チームを裏切ったという気持ちがありましたし、自分を責め続けていました。大学をやめて、働くつもりだったんです......」

 静岡の実家に帰り、「陸上をやめる」と一度は両親に告げた。しかし、最終的には踏み止まり、チームに復帰。

「自分が決めた道。最後までやり通そう」

 7月に練習を再開すると、徐々に調子を上げていく。全日本大学駅伝の7区で区間6位。箱根駅伝は復路のエース区間である9区に起用された。

 2005年度の亜大は出雲駅伝が8位、全日本が11位。箱根駅伝エントリー選手上位10人の10000m平均タイムは9位(29分28秒61)だった。

そんななか、岡田監督はすでにスピード化が進んでいた箱根駅伝に向けて、マラソン練習のように距離を徹底的に踏むハードな練習を敢行。高校時代に実績がなかった選手たちに"魔法"をかけた。

【8区の戦況変化を生かし9区で大逆転】

 そして2006年の正月に"ミラクル"を巻き起こす。初日は順天堂大が5区の今井正人で大逆転に成功。17年ぶりの往路Vを果たして、復路も快調だった。

 2位とのタイム差は5区終了時で30秒、6区終了時で1分05秒、7区終了時で2分53秒。7区を終えた時点で亜大は5位で、トップの順大とは4分05秒もの大差がついていた。しかし、8区で戦況が一変する。

 順大は13km付近で2位とのリードを3分25秒差に拡大するも、難波祐樹が脱水症状でフラフラになり、終盤失速。駒澤大がトップに立ち、亜大が2位に浮上した。

 8区終了時で1位と2位の差は1分12秒。一気に5連覇が視界に入った駒大だが、雑草軍団が食らいついた。

 山下は13kmすぎ、27秒後にスタートした順大・長門俊介に追いつかれたものの、すぐに引き離す。

そして駒大の背中に近づいていった。

「ウォーミングアップの途中で3位になっていて、着替えたら2位になっていたんです。走る直前、監督から電話で『3番でいいんだ』と言われて、リラックスすることができましたね。監督が設定したタイムを意識して走ったら、リズムに乗れて、最後まで前に駒大がいるつもりで攻めの走りができました」

 山下は19.5kmで駒大・平野護に追いつくと、1kmほど並走した。そして平野の動きをチラッと確認して、ペースアップ。両者の差が広がっていく。

 一度はチームを離れた男が区間歴代5位(当時)の1時間09分30秒で走破。残り約2.5kmで駒大との差を42秒まで広げ、区間賞に輝いた。最後はアンカー・岡田直寛が澄み切った青空の下、初優勝のゴールに飛び込んだ。

「12月に入って絶好調だったので、9区を監督に志願しました。区間賞は狙えると思っていましたし、駒大と1分差ということで、抜ける自信もありました。駒大に並んでからは、もう一回頑張ろうと決めていました。

抜いたあとは、1秒でも速く10区にタスキを渡すつもりで走りましたし、トップでタスキを渡したときは優勝を確信していましたね」

【特別な輝きを放った「堅実駅伝」】

 前回総合7位からの優勝は当時最大のジャンプアップVで、往路6位からの優勝も過去最大の逆転劇だった。亜大は岡田監督が主将を務めた1967年に箱根駅伝の初出場を果たし、岡田監督のもと、29回目の出場で悲願の初優勝となった。

「3位になって7位になって、次が優勝。『機が熟した』という感じでしたね。私自身もそうでしたけど、選手たちも、自分たちの走りをすれば上位に入れることを知ったんです。あの時(2004年)の3位が大きかったですね。いま以上の力をつけることができれば、さらに上の順位を狙える可能性があるわけですから」(岡田監督)

 選手たちは、「前半は焦らずに入って、15kmからペースアップする」という岡田監督の指示どおりに走破。有力大学に相次いでアクシデントが起こり、優勝ラインが下がったこともあり、独自の「堅実駅伝」が特別な輝きを放った。

 亜大は翌年、さらにパワーアップする。出雲は8位、全日本は7位と前年順位を上回ると、箱根駅伝エントリー選手上位10人の10000m平均タイムは5位(29分13秒42)まで引き上げた。正月決戦は優勝候補の一角に挙げられたが、エースが不発に終わる。

 チーム一の練習量を誇る山下は、最後の年は花の2区に起用された。

しかし、区間16位と大苦戦。7位から16位まで順位を落としたのだ。それでもチームは総合10位に滑り込み、シード権を確保した。

 最後の年はインパクトを残すことはできなかったが、亜大の大躍進と山下の"大逆転劇"は箱根駅伝史に残る名シーンとなった。

●Profile
やました・たくろう/1984年10月21日生まれ、静岡県出身。常葉学園菊川高(静岡)―亜細亜大―富士通。箱根駅伝には1、2年時は10区を走り、3年時は9区を任され、逆転劇を演じる区間賞を獲得し、チーム史上初の総合優勝に大きく貢献した。4年時は2区で思うような走りはできなかったが、出場した4年間すべてでチームはシード権を獲得した。現在は小森コーポレーションのコーチを務めている。

【箱根駅伝成績】
2004年(1年)10区7位・1時間11分39秒
2005年(2年)10区6位・1時間10分30秒
2006年(3年)9区1位・1時間09分30秒
2007年(4年)2区16位・1時間10分36秒

酒井政人●取材・文 text by Masato Sakai

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