根本陸夫外伝~証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第12回
証言者・松永浩美(4)

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 交渉開始から2時間近くが経過していた。目の前で頭を下げる根本陸夫に「もう一度だけ、苦労をともにしてください!」と言われた途端、松永浩美の全身に鳥肌が立った。

「私でよければ、お力添えさせてください」と松永は即答し、FA移籍第1号選手となった。

 FA元年の1993年11月28日。阪神からFA宣言していた松永は、ダイエー(現・ソフトバンク)監督の根本との入団交渉に臨んだ。阪神残留の可能性もゼロではなく、西武とも交渉。他球団からの話もあり、あくまでもフラットな状態だった。それが一気にダイエー入りに傾いたのはなぜだったのか。
松永に聞く。

松永浩美から小久保裕紀、内川聖一へ。根本陸夫が仕組んだリーダ...の画像はこちら >>
「今は弱いダイエーが西武みたいに強くなっていくんだ......オレがそのチームの礎になるのかと思ったら、ワクワクして。それは根本さんがチームづくりの構想を教えてくれたからなんだけど、最後は『ともに苦労してくれないか』っていうひと言が殺し文句になった。この言葉は男冥利に尽きましたね。2時間のなかにドラマがありました」

 実質的なGMを兼任していた根本は、元来の交渉術に加え、編成としての辣腕を発揮。西武との3対3のトレードで佐々木誠を放出して秋山幸二を獲得した。
FA選手にしても、巨人を飛び出した駒田徳広の獲得も目論み、本人の自宅に電話したあと、記者にこう言っていた。

「留守を預かっているという人が出て、『実家に戻っているが夜には帰る』ということだったよ。駒田はもともと、外野をやっていて一塁も守れる。獲得できれば、ゆっくり外国人選手を選べるんだけどな」

 結局、駒田は横浜(現・DeNA)に移籍したが、根本は補強に貪欲だった。監督として1年間チームを見てきて、"同好会野球"から優勝を目指す方向に転換するには、主力選手を変えるしかないと感じたからである。そこで松永、秋山を獲ったわけだが、翌94年2月のダイエー高知キャンプ。

第1クールの4日間が終わると、根本は松永を監督室に呼んだ。

「マツ、どう?」

「うーん。まあ......」

「いいんだよ、正直に言ってもらって。マツが思ったことを言ってくれたらいいから」

「本当にいいですか? とんでもないこと言っても、大丈夫ですか?」

「何でも、受け入れるから大丈夫だ」

「このチーム、キャンプは遊びですね。勝つということを考えていませんよ」

「どこでそう思った?」

「ミスすること前提のプレーしかやってませんもんね、ここは。誰かがミスするから、誰かがカバーする、っていうような野球しかやってませんよ」

「そこなんだよね。
勝てるチームじゃないんだよ。それを言ってほしいんだよね」

 一選手の意見を全面的に受け入れる──こんな監督は過去にいない、と松永は思った。そこで「本当に言っていいんですね?」と確認を取り、チームの投手陣と内野手たちに積極的に伝えていった。

 即戦力として期待される新人の小久保裕紀にも「おまえ、元からいる団塊の選手の気質に染まったら負けるぞ。強くなけりゃ、絶対に勝てない。このチームは甘い」と伝えた。



「根本さんに『そういう話もしていいんですか?』って聞いていたからね。しかも話したことは全部、伝えましたから。自分がオリックス時代に対戦した時、ダイエーの野球にスキを感じていたんだけど、いざ入ってみて、『あっ、だからなのか』と気づいたところもあったし。それで実戦に入ったら、言葉じゃなくてプレーで伝えていました」

 北九州でのオープン戦、ダイエーの攻撃中。松永が二塁走者、秋山が一塁走者で出ていた時のことだ。何気なく秋山が気になってパッと見ると、目を合わせ、微かに顔を右に動かした先へ視線を送った。
瞬間、松永は意図を理解し、次の1球でダブルスチールを成功させた。

「サイン出てないのに。さすが秋山だな、と思いました。やっぱり、強い西武で野球やってきた男だなと。ベンチも『アイコンタクトだけで野球やってる。すごい』ってなりましたからね。それで今度、9回裏に僕が先頭打者で打席に立って、すぐに追い込まれたんだけど、そこからファウル、ファウルで粘って、結局、フォアボールで出たんです。

 選手みんなが『あの粘りはすごい』と感じてくれたと思うし、1番打者の僕が第1打席で必ず塁に出るところを見たら、簡単に終わっちゃいけないんだなと気づいてくれただろうし......。そういう姿をあえて現場で見せていく必要がありました。だから、基盤をつくらせてもらったんだなっていう気はすごくありますよ」

 根本はキャンプでもミーティングを行なわなかった。代わりに松永、秋山を生かしたのだが、これは広島監督時代に山内一弘(元・毎日ほか)、西武監督時代に田淵幸一(元・阪神ほか)、野村克也(元・南海ほか)らを生かしたことに通じる。

 すなわち、他球団から加入したベテランの野球に取り組む姿勢を見せて、選手たちの意識を変えていくのだ。

 その点、松永自身、キャンプでは自分なりに実践してきた"特守"を選手たちに披露した。阪急時代から2月は連日2時間、ノックを受けていた松永にとって、それは「普通のノック」だった。が、ノックをしたコーチは終わった途端、「いやあ、引き込まれたよ。こんな特守、初めてやった」と言った。そこで"特守"のやり方も助言することになった。

「特守は僕がいつも最初に受けて、ベースランニングでもトップで走った。アップで3人並んで走る時には、先頭のいちばん左に立った。『そこを走っているヤツがこのチームを引っ張っているんだなって、見る人はみんなそう思うから』って、阪急時代に福本(豊)さんに教わったんです。それを今度は僕が小久保に教えて、小久保が内川(聖一)に伝えたんですね」

 松永、秋山から小久保、内川へと継承された、ホークスのチームリーダーの系譜。そこには"平成の三冠王"松中信彦や熱いプレーでチームを鼓舞する松田宣浩も含まれるわけだが、原点には黄金期の西武のみならず、1970年代に6度のリーグ優勝、75年から日本シリーズ3連覇を成し遂げた阪急の野球もあったのだ。

 そして、継承といえば、現在のソフトバンクのシートノックが想起される。大半の球団はまず若手からノックを受け、主力選手はうしろで声を出すものだ。だがソフトバンクの場合、必ずレギュラー陣が最初に受ける。これも松永のやり方と通じている。

「阪急のシートノックも主力が先でしたからね。それを僕が教えて、小久保が継いでくれたんでしょう。ただ、僕は別に継承されて嬉しいとは思わない。小久保も、内川も、主力が先に受ける意味は理解したんだろうなと思うだけ。理解して実践しているから、ソフトバンクは強いんじゃないですか」

 1994年4月9日、兵庫・神戸で行なわれたオリックスとの開幕戦。古巣相手だけに松永は試合前、宿舎から球場に向かうバスのなかでマイクを手に取り、緊張するナインに向けて言った。

「みなさん、おはようございます。僕はトレードで出された人間なんで、オリックスが憎くて仕方ないんですよ。今日の開幕戦はとにかく、何が何でも僕は勝ちたいんで、よろしくお願いします」

 あちこちから笑いが出て、一気に緊張がほぐれた。雰囲気がよくなったその日のダイエーは序盤から打線が爆発し、17対6で大勝。試合後、6打数2安打2打点と結果を残した松永をベンチで呼び止め、根本が「マツ、報われるね」と言った。この年、1番・三塁で活躍し、打率.314を残した松永はベストナインに選ばれ、ゴールデングラブ賞も受賞。球団の期待に応えた。

「あの94年は、自分の野球人生のなかでいちばん充実していた年だった。阪急でも充実感はあったけど、あの時はFAでの移籍に始まって、いろんな意味で達成感もあったから。これでこのチームが勢いに乗ってくれたらいいな、という思いはありました。だから、自分を誘ってくれた根本さんとの歴史は浅いんですけど、いちばん重たかったかな」

 翌95年、新たに王貞治が監督に就任したチームに、松永が望んだ勢いは出なかった。松永自身、ケガもあって徐々に出番が減少し、97年限りで退団。その後、MLBに挑戦するも夢は叶わず、現役19年で引退したが、松永がホークスに伝えた野球は、今なお生き続けている。

つづく

(=敬称略)