#10 原辰徳(巨人) ケガから復活の代打逆転満塁HRの画像はこちら >>

◎1987年4月19日 後楽園球場

広島  4 0 0 2 0 0 1 0 1 = 8

巨人  0 7 0 1 0 0 0 0 0 = 8

HR(広島)衣笠2号 伊藤1号 ランス6号

(巨人)原1号

「あのときは6,7分の力でしか打てない状態で、それ以上の力で打ったらおかしくなるのはわかっていた。だけど、津田が全力投球しているのに自分の力をセーブしたらダメでしょう。

だから、こっちも全力で振ったんです」

これは80年代、巨人軍の4番・サードとして活躍した“若大将”こと原辰徳が、1986年のシーズン終盤に後楽園球場で行われた広島戦を回顧して語った言葉である。この年、原は8月上旬の中日戦で守備の際にダイビングし、左手首関節を痛めて戦線を離脱した。しかし、チームが優勝争いをしている大事な時期に4番が休んではいられないと、故障が完全に癒えないまま痛み止めを打って復帰。9月24日、優勝を争う首位・広島との直接対決を迎えた。

広島3点リードの9回裏、2死一塁の場面で打席に立った原。ピッチャーは広島の“炎のストッパー”こと津田恒美。打ち取られたら試合が終わる場面で、原はカウント2-2から、津田が全力で投じた剛速球をフルスイングで打ち返した。打球はファールだったが、その瞬間「バキッ」という音とともに原の左手有鉤骨は折れ、原のシーズンはそこで終了。巨人はリーグトップの75勝を挙げながら、73勝で引き分けが多い広島に勝率で上回られ、ゲーム差なしの2位で優勝を逃した。

原はのちに「この骨折で事実上、バッター・原辰徳は終わりました」と語っている。以後、骨折前のスイングを取り戻すことはなかったからだ。しかし「フルスイングしたことに後悔はない」と言う原。

相手のリリーフエースが全力で真剣勝負を挑んでいるのだから、巨人軍の4番たるもの、真っ向から受けて立たねばならない……津田との対決は、選手生命を懸けた“生きるか死ぬか”の勝負だったのだ。しかし、ファンからは厳しい批判も受けた。「優勝を逃したのは4番の責任だ」とも。

そんな中、原は懸命にリハビリに取り組んだが、回復状況は思わしくなく、翌1987年はプロ入り後初めて開幕戦をベンチで迎えた。それでも、いつ出番が来てもいいように準備を怠らなかった原。開幕3カード目にホーム・後楽園球場で、前年苦杯をなめた広島との3連戦を迎えた。初戦は0-7で落とし、2戦目は2-2のドロー。負けられない3戦目、巨人は初回、先発・槙原寛己が衣笠祥雄に先制満塁ホームランを浴び、いきなり4点のビハインドとなった。

しかし巨人はすかさず反撃。2回、無死満塁のチャンスに槙原と松本匡史の連続タイムリーで2点を返し、なおも満塁。ここで王貞治監督は勝負に出る。2番・岡崎郁に代えて早くも原を代打に送ったのだ。

まだ完調ではなくても、この試合の流れを変えるには原しかいない、という王監督の信頼の表れだった。

原はこの起用に、みごと応えてみせた。広島2番手・清川栄治から、ライナーでレフトスタンドへ叩き込む逆転満塁ホームラン! 大歓声の中、両手を挙げて万歳をしながらダイヤモンドを一周した原。代打での一発となったシーズン第1号は「巨人の主砲は俺だ」とあらためて示してみせる、鮮やかな逆転グランドスラムだった。

この試合は終盤、広島に追いつかれドローに終わったが、復活をアピールした原はその後スタメンに復帰。骨折前のスイングは取り戻せなかったものの、フォーム改造に取り組み、クロマティから4番の座を奪い返した。原は最終的に前年の36本とほぼ変わらぬ34ホーマーを放って、4年ぶりのリーグ優勝に貢献。期待をかけてくれた王監督に、就任4年目で初の胴上げをプレゼントしてみせたのである。

<チャッピー加藤>

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