インバウンド需要に沸いている日本。観光地はもちろん、大きな都市ではどこに行っても外国人の姿が目に入ってきますが、日本に住み、インフレ&物価高の影響を大きく受けている日本人からすると「日本の何がそんなに良いのか?」と疑問に思ってしまいますよね。

そこで、すこし日本にゆかりのある外国人に「日本の印象」を聞くことで、我々が忘れかけていた日本の素晴らしさに改めて気づくことができるかもしれません。

沖縄で暮らしたアメリカ人男性が感じた生活の不便さ。それでも日...の画像はこちら >>
フロリダ州で育ち、大学在学中にアメリカ空軍へ入隊したアーロンさん(53歳)。現在はユタ州で暮らし、精密測定機器の管理責任者として働いています。初めて日本を訪れたのは1994年、沖縄の嘉手納空軍基地への配属がきっかけでした。その後、いったん帰国したのち、2004年から再び沖縄へ。基地内だけでなく、現地での生活も経験しながら、長く日本で暮らしてきました。今回はそんなアーロンさんに、日本の印象を伺いました。

初めての日本で心地よさを感じた理由

沖縄で暮らしたアメリカ人男性が感じた生活の不便さ。それでも日本の印象がポジティブだったワケ
2度目の沖縄滞在中に乗っていた愛車RX-7。南国の空気によく似合っていた(写真提供:アーロンさん)
「初めての日本は、沖縄の夏でした。サウスダコタ州から来た私にとっては、“人間らしい気候に戻ったような心地よさ”を感じました」

乾いた気候のサウスダコタ州から一転、湿度のある沖縄の空気は、故郷のフロリダ州を思い出させるものだったといいます。入隊後に配属されていたサウスダコタ州は、湿度が低く空気が乾いており、夏はカラっとした暑さ。冬は厳しく、冷え込む内陸の気候です。

そのため、初めて訪れた沖縄の印象は穏やかなものでした。南国らしい空気感に加え、人々の親切さも強く印象に残ったそうです。


沖縄で暮らしたアメリカ人男性が感じた生活の不便さ。それでも日本の印象がポジティブだったワケ
沖縄・名護の桜祭りで、屋台グルメやにぎやかな雰囲気を楽しむアーロンさん(写真提供:アーロンさん)
「人はとてもフレンドリーでしたし、食べ物もおいしかったです。日本にはすぐになじめました」

もともと和食には抵抗がなく、アメリカにいた頃から日本食に親しんでいたというアーロンさん。実際に日本で暮らし始めると、食の選択肢の多さにも驚かされたといいます。

「ラーメンやカレー、回転ずしなど、気軽に外食できる場所がたくさんありました。コンビニでおにぎりを買えるのも便利でした」

アメリカのコンビニエンスストアは、ガソリンスタンド併設が中心です。ホットドッグなど温かい軽食を扱う店はありますが、日本のように種類豊富なお弁当やおにぎり、しっかり食事になる商品が幅広くならぶスタイルは一般的ではありません。

沖縄の海に囲まれた環境も含め、日本での生活は自然と受け入れられるものだったと振り返ります。

読めない家電、通じない電話……それでも回った沖縄の暮らし

沖縄で暮らしたアメリカ人男性が感じた生活の不便さ。それでも日本の印象がポジティブだったワケ
沖縄で暮らしていた、最上階の部屋のバルコニーから見えた景色(写真提供:アーロンさん)
基地の外で暮らし始めると、日常の中にさまざまな違いが見えてきました。アーロンさんがまず印象的だったと振り返るのが、生活の仕組みです。

「公共料金の支払いが、コンビニエンスストアでできるのは驚きでした。とても便利だと思いました」

アメリカでは、公共料金の支払いは郵送や銀行経由、公式サイトからのオンライン決済が中心です。日本のように24時間営業の店で、手軽に払える仕組みは一般的ではありません。一方、日本で公共手続きの問い合わせを電話で行う場面では、用件がなかなか伝わらない不便さも経験したといいます。


「電話だと、ほとんど何も進まないんです。結局、自分で行って聞くしかない。でも、それが普通なんだと分かっていきました」

そんな中で、とくに印象に残っているのが、家電にまつわる出来事です。

「ある日、備え付けの機械を食洗機だと思って、汚れた食器を入れて洗剤をセットしたんです。でもいくら待っても動かないので、不動産会社に伝えたところ『それは食器乾燥機ですよ』と笑われたんです」

食器乾燥機やエアコンなど、家電製品の説明書やボタン表示もすべて日本語。アーロンさんは、手作りのメモを見ながらすこしずつ使い方を覚えていったといいます。

「全部日本語なので、絵にしてメモを作っていました。これが風量、これが温度、という感じで……」

すこしずつ工夫をしながら生活に慣れていったアーロンさんですが、その後、なぜか半年以上にわたって空室の問い合わせ電話がかかってきたので困ったといいます。

「何度も間違い電話がくるので、『その名前の人はもうここには住んでいません』と、日本語でいえるようになりました」と笑顔で語ります。

実は住まい選びの際、空室の多いアパートで自由に内見できるといわれ、最上階の広い部屋を選んだところ、そこは本来、管理人室でした。

「あとで分かったんですが、そこは管理人の部屋だったんです。ちょうど管理人が住んでいない時期で、その部屋も空室として案内されていたみたいです。
理由が分かったのは、建物の看板に書かれていた連絡先が、自分の部屋の電話番号だったことに気づいたときでした」

戸惑うことの多い日々でしたが、「分からなくても、生活は意外と回るものだった」とアーロンさんは振り返ります。

“困っても誰かが助けてくれた”沖縄で感じた人との距離感

こうした戸惑いの連続の中で、アーロンさんの中にすこしずつ芽生えていった感覚があります。それは、“うまくいかなくても、無理に押し通さなくていい”という考え方です。

「アメリカだったら、もっと強く主張したり、イライラしたりしていたと思います。でも日本では、そういうふうにはならなかったんです」

言葉が通じない、仕組みが分からない。そんな状況では思い通りに進まないことも少なくありません。それでも、感情をぶつけるよりも、一度引いて受け入れるほうが自然だと感じるようになったといいます。

「怒っても解決しないんです。だったら、やり方を変えるしかない。そう思うようになりました。印象的だったのは、人との距離感です。近くに誰かいれば、たいてい助けてくれました。自分からうまく説明できなくても、何とかしようとしてくれる人がいるんです。
うまくいかないことがあっても、“誰かのせいだ”と感じることはほとんどなかったです。そういう状況なんだ、と受け止めるようになったんです」

アーロンさんにとって、そんな積み重ねが、日本での時間を特別なものにしていきました。

日常の延長として残る、日本という場所

沖縄で暮らしたアメリカ人男性が感じた生活の不便さ。それでも日本の印象がポジティブだったワケ
沖縄で親しくなった仲間たちと出かけた北海道旅行(写真提供:アーロンさん)
読めない言葉、分からない仕組み、思いがけない出来事の数々。それでも、日本の暮らしは、困難よりも穏やかな記憶として残っているアーロンさん。

「本当に楽しい時間でした。長く暮らしていましたが、嫌な記憶はあまり残っていないんです。不便さや戸惑いは確かにありました。それでも、それを上回るかたちで残ったのは、人の親切さや、穏やかなやり取りの記憶です」

異なる文化の中で過ごした時間は、特別なものではなく、どこか日常の延長のように心に残っている。アーロンさんにとっての日本は、そんな場所なのかもしれません。

<取材・文/トロリオ牧(海外書き人クラブ/ユタ州在住ライター)>

【トロリオ牧(海外書き人クラブ)】
2001年渡米、ユタ州ウチナー民間大使。アメリカでスーパーの棚入れ係やウェイトレス、保育士を経験したあとアメリカ政府の仕事に就く。政府職員として17年務めるが、パンデミックをきっかけに「いつ死んでもOK!な生き方」を意識するようになり2023年辞職。
現在はNHKラジオ出演や日本のWebメディア執筆など幅広く活動中。世界100ヵ国以上の現地在住日本人ライターの組織「海外書き人クラブ」会員
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