『幕末あどれさん』(幻冬舎)著者:松井 今朝子Amazon |honto |その他の書店

◆「青年」の心の揺れ、今に通じる人生劇
“芝居というのはふしぎなもので、まっとうな人物ほどつまらない男に見え、どうしようもない悪党が、人間らしく立派に見える一瞬がある。”

江戸から東京へ。
幕府の瓦解(がかい)こそもっとも演劇的な時代であった。その転変の数年を描いた、これはじつに手練れの作品といえる。

旗本小納戸役の次男久保田宗八郎は、講武所をやめて河竹新七(のちの黙阿弥)の弟子となる。一方、小普請組の次男、片瀬源之介は、いいなずけを置いて幕府陸軍歩兵に志願した。

腰のものに嫌気のさした男と、腰のものは頼りにならないと踏んだ男、二人の部屋住みの青年、フランス語でいう<アドレサン>の交錯しそうで微妙に出会わない人生をぐいぐいと描いていく。それぞれに知力も武芸の腕もありながら、ものにぴたっとめぐりあわぬ運命とでもいおうか、その運命の逸(そ)れ方が、いわゆる時代劇的なご都合主義、大仰なパターンにならない。現代人の心の揺れを思わせ、登校拒否や母子密着、OAに乗り遅れるサラリーマンなどまで髣髴(ほうふつ)とさせるところがあって、江戸の風俗や芝居の世界が抜け目なく書き込まれているだけに、心に惻々(そくそく)と迫る。

なるほど、高杉晋作や坂本龍馬、土方歳三など、舞台を得た人びとの華々しい英雄譚(たん)のかげに、こうした小禄(しょうろく)の幕臣たちの哀(かな)しい、さえない人生があったのか。「いまの世に武士は廃り者だ」とたとえ目はしがきいたとて、自分の天の邪鬼ばかりは御しがたい。

【書き手】
森 まゆみ
作家・編集者。1954年東京都文京区生まれ。早稲田大学政経学部卒業。
東京大学新聞研究所修了。1984年、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務める。専門は地域史、近代女性史、まちづくり、アーカイブ。98年に『鴎外の坂』で芸術選奨文部大臣新人賞、03年に『「即興詩人」のイタリア』でJTB紀行文学大賞、14年に「青鞜の冒険」で紫式部文学賞を受賞。そのほかサントリー地域文化賞、建築学会賞(文化賞)他。著書に『「谷根千」の冒険』『女三人のシベリア鉄道』『海に沿うて歩く』『おたがいさま』『暗い時代の人々』『子規の音』など多数。

【初出メディア】
朝日新聞 1998年11月15日

【書誌情報】
幕末あどれさん著者:松井 今朝子
出版社:幻冬舎
装丁:文庫(726ページ)
発売日:2012-06-12
ISBN-10:4344418808
ISBN-13:978-4344418806
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