◆一九四一年一二月七日晩の吉報
小学校六年生のとき三津田健が吹き替えていた「チャーチルの大戦回顧録」をテレビで見て『第二次大戦回顧録』の抄訳二巻本を買ってもらったのが読書生活の始まりで、以後、チャーチルへの関心は六五年以上続いている。
この評伝でまず驚くのは両親の子供への無関心である。
士官学校を出て騎兵少尉となるが、実戦への渇望からスペイン軍のキューバ反乱鎮圧に雑誌特派員として参加、ジャーナリストとして頭角を現し、英国植民地で軍人・戦場ジャーナリストとして活躍。二六歳で庶民院議員となる。だが保守党の方針に従わず自由貿易を主張、自由党内閣で植民地次官に就任するとボーア人宥和(ゆうわ)政策で業績をあげるが同時に悪癖も出てくる。「生涯を通じて、ウィンストンは関係がないと思われる問題に首を突っ込むことになる」
商務大臣時代には防諜(ぼうちょう)機関を立ち上げ、内務大臣、海軍大臣としてアイルランド問題や海軍航空隊創設などで業績を残すが、真骨頂が発揮されたのは第一次世界大戦が勃発したときだった。「行動は解放であり、祖国と国王の代理人として闘技場入りするのは、幼少期にまでさかのぼる夢であった」。チャーチルは戦争指揮に喜びを見出(みいだ)す人物だったが、指揮者なのにヴァイオリンやトランペットを演奏したがる欠点もあった。これは「明らかに戦略家としてのウィンストン・チャーチルの弱点の一つを示している」。そのせいかガリポリ上陸作戦で惨敗、海相辞任を余儀なくされたが、軍需大臣として再入閣するや、戦車部隊や航空隊の整備で戦況打開に貢献する。「ウィンストンはいかにもプロの戦略家ではない。しかし、ひらめきのある、アイデアにあふれるアマチュアである」
戦後は陸相兼空軍相として軍事予算に大ナタをふるう一方、ロシア内戦への介入を主張、「労働党からは世界のプロレタリアの不倶戴天(ふぐたいてん)の敵だとされた」が、アイルランド自由国の誕生には尽力した。
チャーチル復活はナチが政権奪取し、戦争の危機が迫ってからである。チェンバレンの宥和政策を猛烈に批判、強硬策を主張した。だが、出番が訪れたのは一九三九年九月一日にポーランド侵攻が始まってからである。海相として入閣後、一九四〇年には首相に就任、絶望的な状況で戦争を指導した。戦争に勝つ唯一の方法は米国を参戦に導くことと信じたが、一九四一年一二月七日の晩に吉報が届く。「これで、最終的には勝利は我々のものだ!」。小学校六年で『第二次大戦回顧録』を読んだときもこれが最も心に刺さった言葉だった。
英雄を美化せず、敬意も失わないフランス人歴史家による公正な伝記である。
【書き手】
鹿島 茂
フランス文学者。元明治大学教授。
【初出メディア】
毎日新聞 2026年2月7日
【書誌情報】
チャーチル伝著者:フランソワ・ケルソディ
翻訳:大嶋 厚
出版社:作品社
装丁:単行本(736ページ)
発売日:2025-12-24
ISBN-10:486793125X
ISBN-13:978-4867931257