◆芸を楽しみ共に生きた幸せ
ひとつのことに打ち込む喜びを教えられた。
著者の山川静夫は、紅白歌合戦の司会など、NHKを代表するアナウンサーとしてよく知られている。
米寿記念として刊行された本書は、歌舞伎座の三階席に通い詰め、寝食を削って、歌舞伎を見続けた学生時代の思い出から始まっている。三階から役者にタイミングよく声を掛ける「大向(おおむこ)うの会」に加わり、役者の声や台詞(せりふ)まわしをまねる声色(こわいろ)をよくした。特に十七代目中村勘三郎にすぐれて、本人に注目された。芝居の虫、勘三郎は、山川の声色を生かし、早替りの間を繋(つな)ごうとする。黒衣姿で二度舞台にあがって「勘三郎を演じた」のが、生涯の誉れとなった。
今はもうない歌舞伎座のおでん食堂で、茶飯をおまけしてもらい空腹を満たしたこと。電車賃を節約するために、都電で四十分掛けて通ったこと。ものは豊かではなかったけれど、人々が熱意にあふれ、懸命に打ち込んでいた戦後の昭和が浮かび上がってくる。反面、あとがきにある「『芸』と『デジタル』は相性が悪いです」のひと言が突き刺さる。
やがて、山川はNHKに入局し、六代目中村歌右衛門や十三代目片岡仁左衛門らの名優たちと、直接、会う立場になる。マスメディアに座を占めた人間の自慢話ではない。
第三章の「名狂言の力」も読ませる。『勧進帳』や『仮名手本忠臣蔵』などの古典を、現在に生きる舞台として捉えている。懐かしい話に涙するのではない。山川にとって歌舞伎は、楽しみであり、喜びであり、友であった。読者も、その仲間になりましょうと誘ってくれた。
【書き手】
長谷部 浩
1956 年生まれ。慶應義塾大学卒。演劇評論家、東京藝術大学名誉教授。 現代演劇から歌舞伎まで幅広く評論活動を展開。
【初出メディア】
東京新聞 :2021年10月16日/中日新聞:2021年10月17日
【書誌情報】
山川静夫の歌舞伎思い出ばなし著者:山川 静夫
出版社:岩波書店
装丁:単行本(218ページ)
発売日:2021-08-31
ISBN-10:400025359X
ISBN-13:978-4000253598