◆受験、就職、ピカソ…「超幽体」の感性
本書はベストセラーになるだろう。九十歳を迎える天才画家が肉体の衰えなど意に介さず創作に打ち込んでいる姿は時代のトレンドである「老いの肯定」に棹(さお)さしているように見えるからだ。
だが、横尾忠則のテクスト(以下、横尾テクスト)に長年親しんできた私のような読者から言わせると本書は「老いの肯定本」では決してない。
では、どのような本なのか?
幽体離脱を経験している著者が「老いる自分」を上方に漂う幽体の視点から眺めているという構造の本なのだ。だから「老いの肯定本」などではなく、むしろ「幽体離脱者の一生」とでも名付けるべき本なのだ。
この観点を導入すると、本書にちりばめられたさまざまなエピソードがすべて繋(つな)がってくる。夢見がちの郵便大好き少年だった著者は老齢の両親を養う必要から大学受験は諦め、地元の郵便局に勤務して日曜画家として生きようと思っていたが、美術教師の勧めで突如、美大受験に切り替える。ところが試験前日、老父母の将来を考えた教師から「やっぱり受験は止めて、郷里に帰れ!」と言い渡され、「何んで?」と聞き返すこともなく帰郷する。印刷会社に就職するも首になり、新聞カットの投稿仲間からの誘いで喫茶店でグループ展を開くと、偶然これを見た二人のデザイナーから強く推薦されて神戸新聞にデザイナーとして採用される。
結婚も同じように向こうからやってきた。先輩の紹介で知り合った女性とデートをするようになったが、ある日、事態が急変する。「僕の下宿屋に突然、彼女がタクシーでやってきました。(中略)急遽この日から彼女との同棲生活が始まったのです」。
グラフィックデザイナーから画家への転向もまたしかり。ニューヨークで開催中のピカソ展を見ているときである。「僕は落雷のような衝撃に撃たれて、その場でいきなり、別次元に運ばれてしまったのです。(中略)『デザインは終った! 次は絵画だ!』という何んとも理不尽な声なき声の啓示によって、一瞬にして、僕の中からグラフィックデザインが追放されてしまったのです。(中略)こうしてデザインが追放され、それにとって代った絵画によって、寿命が今日の89歳まで延命されたというわけです」
最後に、こうした不思議な「横尾テクスト」そのものに触れておかなければならない。
というのも「横尾テクスト」はハチャメチャなエピソードを語りながら、そのまま外国語に機械翻訳してもまったく問題ないような明晰(めいせき)な論理性に支えられているからである。
おそらく、幽体離脱した幽体をもう一つ上から眺めている「超幽体」のような視点がテクスト全体を律しているのだ。「老いの肯定本」と思って真似してはいけない。こんな「超幽体」の視点の持ち主など一億人に一人くらいしかいないのだから。
【書き手】
鹿島 茂
フランス文学者。元明治大学教授。専門は19世紀フランス文学。
【初出メディア】
毎日新聞 2026年4月4日
【書誌情報】
運命まかせ著者:横尾 忠則
出版社:新潮社
装丁:新書(224ページ)
発売日:2026-02-18
ISBN-10:4106111152
ISBN-13:978-4106111150