◆人間の実像と舞台の全景図を描く筆致
七〇〇頁(ページ)におよぶ巨編だが、長さをまったく感じさせない内容だ。史実を記述していながら、まるで小説のような展開になっている。
物語的な描写とはいっても、推測や想像にもとづく叙述や誇張は何一つない。反対に、緻密な史料調査が行われ、一次史料は徹底的に吟味されている。もっとも多く依拠したのは蒋介石日記だが、それを鵜呑(うの)みにしているわけではない。日記には誤記や記憶違いはあるし、本人の作為がないともかぎらない。真偽を見極めるには、公文書をはじめ、各種の記録、メディアの報道や関係者の証言などがふんだんに参照され、個々の歴史的事実について、詳細な確認作業が行われた。
蒋介石が生まれたのは一八八七年。一九七五年に亡くなるまでの八十八年のあいだ、中国の国内においては内戦や動乱が相次いでおり、国際的にも戦争や大事件は絶えなかった。歴史の語り方は立ち位置の違いによって千差万別だが、一人の政治家の足跡を丁寧にたどっていくと、過去の真実の一端がくっきりと見えてきた。
伝記の王道として、蒋介石を叙述の中心に据えるのは当たり前の手法である。他方、著者は同時代の人物群像の描出にも力を入れている。しかも、主役を引き立てるわき役としてではない。
その好例として汪精衛(おうせいえい)、毛沢東やF・ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相についての記述が挙げられるが、権力の中心から離れたところに位置する人たちにも光が当てられている。
もっとも印象に残ったのは戦略家としての、蒋介石の天才ぶりである。彼が北伐軍を率いて戦っていたときに目にしたのは、まさに国破れて山河ありの惨状であった。内戦に敗れ、台湾に逃げるまでのあいだ、国内において足を引っ張る政敵や、政権の転覆をはかる共産党の攻撃をかわしながら、外国からの武力侵攻に対処しなければならない。
複雑極まりない政治状況のなかで、蒋介石は周到な分析にもとづいて冷静な状況判断に徹した。彼はかねてソ連と日本の開戦を予見し、ドイツはいずれソ連と一戦を交えるだろうとみている。冬に入ると、ソ連での作戦が困難になることから、六月中にドイツが侵攻を始めることを、独ソ開戦の二カ月前に的確に言い当てたと。そして、日本の軍部の対英米開戦を見越して、耐えに耐えてアメリカの参戦をひたすら待ち続けていた。
むろん一人の人間として蒋介石は完璧無欠ではない。
【書き手】
張 競
1953年、中国上海生まれ。明治大学国際日本学部教授。上海の華東師範大学を卒業、同大学助手を経て、日本留学。東京大学大学院総合文化研究科比較文化博士課程修了。國學院大学助教授、明治大学法学部教授、ハーバード大学客員研究員などを経て現職。著書は『恋の中国文明史』(ちくま学芸文庫/第45回読売文学賞)、『近代中国と「恋愛」の発見』(岩波書店/一九九五年度サントリー学芸賞)、『中華料理の文化史』(ちくま新書)、『美女とは何か 日中美人の文化史』(角川ソフィア文庫)、『中国人の胃袋』(バジリコ)、『「情」の文化史 中国人のメンタリティー』(角川選書)、『海を越える日本文学』(ちくまプリマー新書)、『張競の日本文学診断』(五柳書院、2013)、『夢想と身体の人間博物誌: 綺想と現実の東洋』(青土社、2014)『詩文往還 戦後作家の中国体験』(日本経済新聞出版社、2014)、『時代の憂鬱 魂の幸福-文化批評というまなざし』(明石書店、2015)など多数。
【初出メディア】
毎日新聞 2026年4月11日
【書誌情報】
蒋介石伝:逝きし時代の墓誌銘著者:劉 岸偉
出版社:ミネルヴァ書房
装丁:単行本(760ページ)
発売日:2026-02-10
ISBN-10:4623094782
ISBN-13:978-4623094783