一緒に暮らしている家族、長年の恋人や親友。
リラックスして付き合うことのできるごく身近な相手のことを、実はよく知らないのだと気づいたことはないだろうか。
主人公の青吾はタクシー運転手だ。和菓子屋で働く恋人・多実とは10年近くも一緒に暮らしている。「お土産、楽しみにしてて」という言葉を残して旅行に出たまま、多実は帰宅しなかった。彼女の職場の人や友人とは交流がなく、家族も知らない。旅の目的地も聞いておらず、写真の一枚も持っていない。
ほどなく警察から連絡があり、五島列島の遠鹿島から出港して転覆した小型クルーザーに、多実とひとりの男性が乗っていたという。男性の妻・沙都子によると、男性は遠鹿島出身らしい。多実の私物からは、なぜか青吾の母親の結婚式の写真がプリントされた古いテレフォンカードが発見された。青吾と母は長く交流を絶っており、テレフォンカードは見たこともないものだった。多実と男はどういう関係だったのか。なぜ遠鹿島に行ったのか。そして、多実と青吾の母の間に何があったのか。
青吾はある事情から肉親とは縁が薄く、親しい友人などもいない。恋人の多実にも自分の過去を話していなかったが、それは多実も同じである。突然の死によって断たれた関係はそこで終了し、一緒に生きていくつもりだった恋人が自分を裏切っていたのかもしれないという思いを抱えたまま、青吾は生きることになっていたのかもしれない。
何かに導かれるようにして、愛した人が心のうちに秘めていたものにたどり着いた青吾の慟哭に、最後はただ心を打たれた。会えなくなった人の思いに守られるからこそ、私たちは喪失を乗り越えて生きていけるのかもしれない。
(高頭佐和子)