家から駅に向かう途中に消防署がある。消防士の皆さんが、ビシッと点呼をとったり、キビキビとトレーニングや点検作業を行う姿をしょっちゅう見ている。
秋月龍朗は生まれ育った街で働くベテランの消防士である。隊長として部下から慕われ、優れた想像力と並外れた勘により他の消防士には救えなかったであろう命も救ってきた。もう数年は現場で活躍するつもりが、今までの仕事とは最も関わりのない部署である指令室に異動になった。住民からの119番を受ける部署である。電話応対はほぼ未経験で、デスクワークも苦手な秋月にとっては気が重い人事だ。三人の隊員のうち、気心がしれているのは元部下のひとりだけ。他のふたりは現場にはいないタイプで、気さくに話しかけられるムードではない。
わからないことだらけで、一番仕事ができない。
ヒーローをビビらせているとはいえ、部下たちは決して敵対的なわけではない。それぞれの得意分野を生かして真剣に業務を行う彼らを尊重し、部下のひとりが作るおやつを一緒に楽しみ、現場経験者ならではの視点も発揮しつつ、秋月は指令室に馴染んでいく。理不尽なことを言ってくる上から部下たちを守ろうとするという姿勢もかっこよく、さすが皆に慕われるヒーローだなあと思う。
だが、彼は誰にも言えない問題を抱えている。五年前に町が大きな水害に見舞われた時、大切な人たちを救えなかった。その時からずっと、水に対する恐怖感から逃れられずにいるのだ。町の人のお世話や地域イベントの手伝いなどで家を空けることが増えた妻とは、肝心なことを話し合えないまま時間が過ぎてしまった。
そんな秋月を一歩前に進ませてくれたのは、彼自身の過去である。消防士という仕事に誠実に向き合ってきた秋月は、自分でも気づかないところで、さまざまな人の人生を支えている。
秋月は「最高の消防士」だが、卓越した技術や並外れた勘を持っているというだけでそうなれたわけではない。それぞれの立場で、誰かのために誠実に努力をする人たちと繋がっているからこそ、「最高の仕事」ができたのだ。そのことを誰よりよくわかっているから、秋月は「町の英雄」なのだろう。
ヒーローではない多くの読者にも、力をくれる小説だ。傷を癒しながら懸命に前に進もうとする秋月と町の人々に、いつかまた会えるといいなあ。
(高頭佐和子)