クリストファー・プリーストは、イギリスSFのポストニューウェーヴ・シーン(1960年代末~)においてもっとも重要な作家のひとりであり、SF界のみならず主流文学読者からも高く評価された才能である。本書は彼が書きついだ連作《夢幻諸島(ドリーム・アーキペラゴ)》シリーズの長篇で、1981年に発表された。
この連作の舞台は別の地球で、北側と南側にひとつずつ広い大陸があり、そのあいだの洋々たる海域を、おびただしい島々が赤道をひとまわり散らばっている。この大小の島々が《夢幻諸島》だ。それぞれの島にそれぞれの歴史・政治的背景・産業・習俗がある。
本作品の主人公であるわたし(ピーター・シンクレア)は、それまで住んでいた都市ジェスラを離れて、《夢幻諸島》を航海する船に乗る。ジェスラは北側の国のひとつファイアンドランドの主要都市で、こちらの世界ではロンドンに相当する。
わたしの船旅の目的地は、コラゴ島の不死処置クリニック。不死処置は莫大な費用がかかるが、社会的平等性を担保するために(つまり富豪だけの独占にならぬよう)、宝くじの仕組みが導入されている。わたしはそのくじに当たったのだ。わたしは実際に不死処置を受けるかどうかを決めかねたまま、島々をめぐっていく。
その過程は、どこか謎めいた出会いや別れの経緯と、抑えた筆致による景観の鮮やかさとが相俟って、ひとつのエピソードだけ取りだしても、読者を惹きつける魅力を湛えている。たとえば、宝くじ事務所で働く女性セリに導かれて訪れた谷間の池では、水の流れのなかにいくつもの日用品が吊されているのを目にする。そうすると、しだいに石化してくるのだ。
さて、コラゴ島に着いたわたしは、まず事細かな質問票に記入するよう求められる。不死処置は脳細胞を含むすべての細胞を新陳代謝させるため、それまでの記憶を失ってしまう。それに備えて、自分に関する情報を記録しておくのだ。しかし----と、わたしは考える。即物的な回答では、たいして役に立たないだろう。より深い真実にふれるには、メタファーあるいは物語の力が必要なのだ。わたしはこの旅に、自分が二年前に書いた原稿を携えてきた。それは単純に人生を書きしるしたものではない。想像上の場所と想像上の恋人や家族を創りだしたうえで、比喩的な自己を主人公として物語を紡いだのだ。ロンドンという都市に暮らす、もうひとりのピーター・シンクレアの物語を。
ここまで《夢幻諸島》側の物語をたどって紹介してきたが、実を言うと『不死の島へ』という作品は、まず、こちらの世界のわたし(ピーター・シンクレア)の視点ではじまる。1976年の春、二十八歳だったわたしは、いくつもの不幸に突きあたった。とりわけ深刻だったのは恋人グラシアとの亀裂である。行き場を失ったわたしは、知人の別荘に仮住まいをして、孤独な執筆活動に没頭する。その物語では、ロンドンではなくジェスラに暮らすピーター・シンクレアが主人公で、グラシアの投影である別人格セリがおり、そのほか家族や知りあいもそれぞれ別の名前で登場する。
つまり、《夢幻諸島》側の物語とロンドン側の物語とが、向かい合わせになった鏡のように映し合う関係になっているのだ。しかも、それはスタティックな構造ではない。メタファーあるいは物語の力は鏡面を超え、やがて、ふたつの現実が互いに侵出しはじめる。とくに終盤、《夢幻諸島》とロンドンとが騙し絵のように連環していくシークエンスは圧巻。
本作品に先立つ1977年、プリーストは『ドリーム・マシン』を発表しており、そこでは胡蝶の夢(夢を見ているのか/夢に見られているのか)が、SFのシチュエーションとして描かれていた。『不死の島へ』は、そこに物語論的視座も含めて発展させた作品なのだ。
(牧眞司)