新刊の時代小説短篇集『ばんば憑き』に収録された短篇「討債鬼」を読んで、今更ながら宮部みゆきという作家の力量に唸らされた。昨年刊行された『あんじゅう』にも顔を出した、手習所「深考塾」の若先生・青野利一郎が主役を務める一編だ。


ある日、深考塾に珍客があった。本所の紙問屋である大之字屋の番頭・久八だ。憔悴しきった面立ちの久八は、利一郎にとんでもない頼みごとをしてくる。大之字屋の主・宗吾郎は、息子の信太郎を深考塾に通わせていた。その信太郎を、利一郎に斬ってもらいたいというのだ。数日前、大之字屋の店頭に行然坊という旅の僧侶が現われた。その行然坊が、信太郎は〈討債鬼〉だと言ったのである。
貸したものを返してもらえず、恨みを抱いたまま死んだ者が、借り主の子供に生まれ変わり、その家の身上を食い潰す。それが討債鬼だ。信太郎がそういうあやしのものだと告げられた宗吾郎はすっかり信じこみ、情けないことに浪人の利一郎にわが子を殺させようと考えた。ひどい話である。利一郎は憤慨し、信太郎を守るために動き始める。

この話で宮部がすごいのは、はやばやとすべての鍵を握っている人物である行然坊と利一郎を出会わせ、その正体を明かしてしまうことだ。人の店に災いをなそうとする悪漢のはずなのに、行然坊には少しも邪な影がない。それどころか、利一郎が彼の身辺を探るために差し向けたわんぱく三人組も、いち早く手なずけられてしまっている始末なのだ。子供に好かれる悪党というのはおかしい、と利一郎が疑念を感じたあたりで小説は一挙におもしろくなっていく。物事が合理的な解決を見るミステリーと、すべての現象が理屈のものさしで割り切れるものではなく、あとに不合理なものが残るという怪談小説、その二つが絶妙なさじ加減で調合される。

怪談で印象に残るのは、ひとびとが「見てしまった光景」だ。見ようとして見られるものではなく、いつもそれを「うっかり覗いて」しまう。思いがけずに目に入った光景だから、逆に胸に刻み込まれ、消しがたい記憶となって残るのだ。「討債鬼」の物語でも、すべてが片付くところへ片付いたかと思った瞬間に、そうした一瞬が到来する。
『ばんば憑き』に収録された作品は、一部を除く作品は、世界初の「妖怪」専門雑誌「怪」に発表されたものだ。たとえば「博打眼」は、光文社のカッパ・ノベルスが50周年を迎えたことを記念して刊行されたアンソロジー『Anniversary50』のために書き下ろされたもので、これは作中に「50」を織り込んで短篇を書く、という競作企画の本だった。したがって「博打眼」にも50が印象的な場面で使われている。

宮部の「怪」発表短篇を集めた短篇集は、以前に『あやし』が出ている。やはり江戸の街を舞台にした怪談小説集で、見てはならぬものを見てしまった者が、そのことがきっかけで怪異のただなかに引き込まれる。『あやし』収録の短篇に凄味があるのは、そうした一瞥によって始まったことが一過性の体験に終わらず、見てしまった者を不可避の運命へとひきずりこんでしまうことだった。
怪の背後には必ず因果話があり、そこに関連した人々の思いが渦巻いている。それを見てしまう、いや見えてしまうことが、連環に巻き込まれるのと同義になる。そうした形で、ぽっかりと穴を空けた向こう側の世界の恐怖が描かれていたのである。見えるものの種類は話によってさまざまなのだけれど、たとえば人の死をつかさどる鬼が見えてしまう「安達家の鬼」では、世俗の垢にまみれてくすんだ日常よりも、闇に包まれた向こう側の世界に共感を覚える、というような心性も描かれていた。日常を超越したあやしの世界には、こわい、おそろしい、だけではなく、そうした安らぎに似た感情を催させる側面もある、という理解を宮部はさりげなく表明している。

怪談の語りに豊富なバリエーションを作り出した『あやし』は、もちろん短篇集としても理想的な出来だった。続編である『ばんば憑き』で宮部は、語りの型をさらに増やしている。巻頭の「坊主の壺」は、使用人が主人の思いがけない秘密を知ってしまう話で、前作の「布団部屋」や「女の首」などに似た味わいがあるが、その秘密がぞろりと覗ける場面には、さらに凄みが加わっている。また、コミカルな展開で笑いを誘う「博打眼」は、前作にはなかったタイプの「怪談」だ。
ミステリーの色が強い「討債鬼」も、新たなバリエーションの一つである。
そうかと思えば「お文の影」のような作品もある。十三夜の月明かりで子供たちが影踏みをしているのを眺めていた老人が、彼らの影に混じって持ち主のいない影が楽しそうに戯れていることに気づく、という怪異の場面から物語が動き始める。その影の正体を探るため、土地に伝えられた因果譚を辿り始めると、辛く哀しい日々を送り、はかなく命を失った、ある子供の肖像が浮かび上がってくるのだ。この作品の結末は静かな感動に満ちている。宮部みゆきは、世の中の理不尽を描くことに躊躇しない作家だ。望みもしない運命を押し付けられ、悲嘆にくれながら生涯を終える人間が、この世にはたくさんいるのである。そうした世界の残酷さから目を背けず、文章として書き表すことによって、宮部は人々の声にならぬ声、無音のつぶやきに形を与えようとする。「お文の影」にこめられたものは、作者の祈りにも似た感情なのである(蛇足だが、この題名は岡本綺堂『半七捕物帳』の一編「お文の魂」を意識したものだと思う)。

表題作の「ばんば憑き」は、旅先の宿で偶然相部屋になった老女から、男が回顧譚を聞かされる話だ。ばんば憑きというのはその中に出てくる、地方の異様な風習である。この作品で浮かび上がってくるものは、逃げ場所がなく一箇所につなぎとめられた者が背負わされる重苦しい運命、精神の重圧である。
『あやし』『ばんば憑き』収録作の共通点は、主舞台が商家であることで、江戸時代の「お店」は、外部から隔絶された空間だった。その中でしか生きられないという諦念が、過酷な運命を従順に受け入れるという態度にもつながったのである。そんな中で、「見てしまった」ことによってつながりを持った異界は、恐怖の対象というだけではなく、時には辛い人生から自分を解放してくれるものとも思えただろう。もどかしい生を送っているものは、日常から飛翔することを夢見るものでもある。この連作には、そうした闇に憧れる者の心性が、時折顔を出すことがある。「ばんば憑き」で宮部は、そうしたつぶやきを最後に置いて、小説の幕を下ろした。

子供たちの描写が効果的に用いられている事も、最後に書き記しておきたい。先に挙げた「お文の魂」での、影踏みに興じる子供たちの姿はいつまでも印象に残る。「博打眼」で襲来した怪異に対して最初に立ち上がるのは七歳の少女だし、「討債鬼」では父親に存在を疎まれる信太郎少年の健気な態度に心を奪われる。小説の中で大きな活躍をするわけではないけど、わずかな台詞、挙措のひとつひとつが愛らしくてならないのが、「野槌の墓」に登場する、主人公・柳井源五郎右衛門の娘、加奈だ。加奈は、近所に住む猫又(年を経た猫がなる妖怪)のタマからの伝言として、「何でも屋」を営む父に頼みごとをする。なぜタマがそんなまだるっこしいことをしたのかを、加奈はこう説明するのだ。

「もしも父さまが、化け猫などというめんようできっかいしごくなものを捨ておくわけにはいかんと、すぐにもタマさんをきってしまおうとされるならば、タマさんはおそろしくて父さまにお目にかかれないというのです。ですから先に、加奈から父さまにうかがってみてくださいと言ったのです」
これは「父さま」としても娘の頼みを引き受けざるをえなかっただろう。宮部は言うまでもなく子供を書くのが抜群に巧い作家だが、この作品集の中でもずるいくらいにその特質が発揮されている。あやしの風景の中に無垢な子供を置くことで、物語は画竜点睛を得たといってもいい。こわくてかなしくて、そして愛らしいのだよな。(杉江松恋)
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