1978年のことである。
そのころ、小学5年生の赤江祐一は悪友たちとともに西新宿のゲームセンターにいた。
のちに玉袋筋太郎と名乗り水道橋博士と「浅草キッド」を結成する漫才師の若き日の姿である。『東京スペースインベーダー』は、玉袋の「童貞」小説である。
今でこそ超高層ビルが立ち並ぶ近代都市のようになっているが、昭和50年代までの西新宿は、木造家屋が立ち並ぶ古い住宅街だった。1965年に淀橋浄水場が廃止になり、広大な敷地が空き地になった。その跡地を中心に再開発が始まり1970年代には数々の超高層ビルが建てられていく(1971年に最初の超高層ビルである京王プラザホテルが竣工)。そんな変化の時代にあっても、周辺の町並みの変化は少なかった。街が解体されたのは1980年代のバブル期以降で、そのころのことはやはり西新宿出身のせがわきりが自伝小説『新宿キッズ』に詳しく書いている。
もともと西新宿一帯は商店が立ち並ぶ繁華街だった。戦前の地図を見るとよくわかる。靖国通りは新宿駅の大ガードを過ぎると青梅街道と名称が変わるが、その道路には新宿駅を発して荻窪駅に至る14系統の都電が走っていた。道の両脇には警察署(今の西新宿駅あたり)や税務署(東京医大並び)などの公共施設が並び、映画劇場などもあった。
赤江祐一はその西新宿で、麻雀屋を経営する両親の下に生まれた(のちに経営不振となり、ゲイバーに転業。思春期の赤江少年は大いに衝撃を受ける)。両親が商売をやっているおかげで日中はほぼ野放し状態。夜ともなれば近所の銭湯に集合し、仲間と翌日の遊びの計画を練るのが常だった。夏は当時の子供らしくナイター観戦。行くのは神宮球場で、もちろん自転車でそこまで走っていくのだ。赤江少年たちが新宿の街を疾走していく場面の描写は、いかにも街っ子が書いた小説らしい。
――ホームレスが寝ていてすえた臭いの新宿大ガードをくぐって大きく右に曲がる。
たしかにマイシティの裏は怪しげな雰囲気で、シンナーでラリったチンピラがしょっちゅうぶっ倒れていた。ちなみに文中に出てくる「ちょっと怖そうな台湾料理屋」とは、現在は東京都調布市に本店を置く「台北飯店」のことである。女優のひし見ゆり子が社長と結婚したことでも有名になった店だ。
周囲のランドマークも、子供たちにとってみれば格好の遊び場所だ。私は団地で育ったので、エレベーターのある高層団地(通称星型住宅)で遊んだ記憶があるが、新宿の子供はそんなレベルではない。超高層ビルがそのまま遊び場になるのである。
――エレベーターでの遊びで人に迷惑をかけるのが、オレ達が上から降りてきて、エレベーターを下りる瞬間、上りのお客が乗ってくるのと入れ違いで、すべての階に停まるボタンを全部押して逃げる遊び。これ高速エレベーターだと、途中階を端折って、展望階に行けるようになっているのだが、一般用のエレベーターとは別に高層ビルの中には業務用のエレベーターっていうのがある。レストランなどに納品する業者の人が使うエレベーターで、このエレベーターにはすべての階のボタンがついている。
えーと。絶対真似しないように。迷惑だからね。
現在のように「知らない大人に話しかけられても返事をしてはいけません」なんて危険対策を教えるような時代ではなかった。自分たちが根城にしている柏木公園でホームレスのおっちゃんと縄張り争いになった赤江少年たちは、大人相手の抗争を開始する。水風船爆弾を投げつけて、いい気持ちで昼寝中のおっちゃんたちをぐしょ濡れにしてやろうという他愛もない作戦だ。だが中に一人限度を知らない馬鹿者がいて、空気銃で相手を撃とうとしたものだから大変。激怒したおっちゃんにとっつかまって散々ぶん殴られることになるのである(後にこのホームレスの村田さんとは、新宿御苑でつかまえたザリガニをあげたことが縁で仲良しになる)。今だったら間違いなく新聞沙汰になるところだ。
『新宿スペースインベーダー』に描かれるのは、大人とは別の世界を子供が持っていて、その中では自由に遊びまわることが許された時代の話だ。黙認された自由には限界があり、踏み外したときにはきちんと大人からの罰が与えられる。
最終章で、仲良しの村田さんはある事件が元で柏木公園を去ってしまう。幼年期の終わりを予感させるエピソードのようだ。本編では描かれていないが、赤江少年は1980年3月に小学校を卒業する。そこから先は狂乱のバブル時代だ。西新宿の町がもっとも記憶の中で美しかった時代を描くというテーマはここで終結し、小説は終わるのである。
私事を書くことを許していただければ、私は自分が学生だった1980年代の終わりに長い時間をこの街で過ごし、社会人となった後にまた戻ってきて1990年代の半ばから2000年代の初頭までを今度は住人として過ごした。成子坂下の古いマンションに部屋を借り、夕日に染まった西新宿の街を見下ろしたときの感慨を今でもありありと思い出すことができる。
おそらく私の西新宿生活は、赤江祐一のそれとはすれ違いになっている。私はたぶん、玉袋筋太郎になった赤江少年の知らなかった十年間を知っているのである。
最初に「LOVE」のオブジェが有名な新宿アイランドタワー(1)、昔の水道局があった場所だ。赤江少年たちが『あしたのジョー』に感化されてボクシングの興行をやろうとしたのはここである。今はオブジェの前でカップルたちが写真を撮りまくる名所になっている(私が一人で写真を撮っていたら変な顔をされた)。
そこから青梅街道を西へ進む。街道の北側の、現在は「西鉄イン」が建っているビルは、本文によると昔は警察アパートだったそうだ(2)
。そこを入って百メートルほど進むと、赤江祐一の母校・淀橋第一小学校があった場所である(3)。新宿区では小学校の統廃合が進み、この淀橋第一小学校も1997年に淀橋第7小学校と統合して廃校になった。そこから旧校舎が取り壊される間の空白期間があり、現在この敷地には区立西新宿中学校が建っている。私の子供を通わせていた保育園が、ここで運動会をやらせてもらっていたはずだ。
写真には写っていないが、フェンスに村田さんのような人生の先輩が寄りかかっておられて、なにやら熱心に自分の身体の清拭作業を進めておられた。ご挨拶をしても村田さんのように気安くお返事をいただけるかわからなかったので、スルーしてしまった。
西新宿中学校から東のほうへ、青梅街道と並行するように戻ると赤江少年たちの根城だった柏木公園がある(4)。新宿区が公共施設の居座りを止めさせようとして大規模な改修をしたことがあったが(都庁へつながる地下道に、竹槍のような無駄なオブジェを林立させたのがその代表例。椅子にはならないので、人が寝転がるのを防止するために作られたとしか思えない)、そのころにこの公園はフェンスに囲われた不思議な場所に変わってしまった。夜には扉が閉じられ、誰も入れなくなってしまうのである。おそらく、ここで遊んでいる子供たちはあまりいないのではないだろうか。
その柏木公園からやや北に進むと、税務署通りと呼ばれる道路にぶつかる。昔は生活道路に毛の生えたような細い道だったが、現在では片側二車線の立派な道路に生まれ変わった。赤江少年たちが駐車場で野球をやろうとして職員に追い返された税務署はこの道路の北側にある(5)。
今でも昔の新宿らしい町並みが残っているのは、この税務署通りと青梅街道で南北を、そして西新宿中学校と成子天神社で東西を挟まれた、ごく小さい面積の一帯だ。柏木という古い住居表示が残ったアパートなど(6)、古い建物がそのまま残った路地が何本かある。古くからある木造アパートの中にはすでに無人になってしまっているものもあるようだが(7)、もちろん人が暮らしている建物も多い。ただし、この付近で昔から営業していた店の多くは閉店しまったようだ。『新宿スペースインベーダー』に出てくる駄菓子屋「青い鳥」のモデルではないかと思われる店は、私のいたころからシャッターが閉まっていた(8)。三坪ほどの面積で細々と営業していた靴の直し屋(9)も、以前から気になっていたのだが、店が開いているかどうかは確認できなかった。
「ぴょこたん」で赤江少年がおばあちゃんに自転車を買ってもらうために歩いた成子天神社にも変化が起きていた。鎮守の森をつぶして30階建てのマンションを建てるという計画が進行中なのである。(10)。この神社には高さ5メートルほどの富士塚がある。江戸時代、富士詣りに行けない人が代わりに見立てて登り参詣をしたのである(現在も正月のみ公開。普段はこのように補修のシートがかけてある。11)。マンションができれば、この富士塚も住人たちから見下ろされることになるだろう。そこにたぶん信仰は発生しない。
そんなわけで、西新宿の変貌をレポートしました。この続きはいずれ、中野坂上の名店「加賀屋」ででも報告します。以上です、キャップ!
(杉江松恋)